歴代内閣総理大臣

中曾根康弘 第3次

期間:1986年7月22日-1987年11月6日.1986年8月,連立を組んでいた新自由クラブは解党,ほとんどは自由民主党復党.

1986年11月,国鉄改革関連8法[日本国有鉄道改革法,旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律,新幹線鉄道保有機構法,日本国有鉄道清算事業団法,日本国有鉄道退職希望職員及び日本国有鉄道清算事業団職員の再就職の促進に関する特別措置法,鉄道事業法,日本国有鉄道改革法等施行法,地方税法及び国有資産等所在市町村交付金及び納付金に関する法律の一部を改正する法律]成立.国鉄の分割民営化が法的に決定.1987年4月1日,国鉄が分割民営化されJR6社発足.

1987年2月,売上税法案提出.しかし,3月の参議院補選と4月の第11回統一地方選挙における自由民主党敗北により法案撤回.

1987年7月,田中派が竹下登・金丸信の竹下派と二階堂進のグループに分裂.自由民主党総裁任期満了を迎える中曾根康弘は竹下登幹事長・安倍晋太郎総務会長・宮沢喜一大蔵大臣の安竹宮からの裁定要請を受け竹下登を指名.

中曾根康弘 第2次

期間:1983年12月27日-1986年7月22日.新自由クラブとの連立政権.行政管理庁等を廃止し総務庁創設.日本専売公社民営化法成立.

1984年11月の任期満了に伴う自由民主党総裁選挙に向けて,田中派と中曾根派の分断を図り宮澤喜一の総裁就任への道を開くべく鈴木善幸が田中派の二階堂進の擁立を目指す[二階堂擁立構想].しかし,田中角榮の反対によって実現せず,中曾根康弘が再選.一連の動きは田中派の中に禍根を残すこととなる.

1984年12月,日本電信電話公社民営化法成立.1986年5月,民間事業者の能力の活用による特定施設の整備の促進に関する臨時措置法[昭和61年法律第77号,民活法]制定.民活法により,国や地方公共団体が民間事業者と共に出資して運営する事業体である第三セクターが設立されていく.

1986年6月2日,衆議院解散.第14回参議院議員通常選挙と第38回衆議院議員総選挙との同時選挙へ.自由民主党は衆議院で300議席を獲得する圧勝.

中曾根康弘 第1次

期間:1982年11月27日-1983年12月27日.田中角榮の後押しにより就任.田中角榮に有罪判決が下ったことで衆議院を解散.1983年12月18日,第37回衆議院議員総選挙実施.自由民主党は過半数割れ.新自由クラブとの連立へ.

鈴木善幸

期間:1980年7月17日-1982年11月27日.日本社会党に在籍経験のある自由民主党総裁.

園田直外務大臣の日米同盟関係見直し姿勢によって日米関係が悪化.親米派の岸信介による倒閣運動などを受け,総裁選不出馬.

[伊東正義]

期間:1980年6月12日-1980年7月17日.内閣法第9条に基づく内閣総理大臣臨時代理.大平正芳首相急死により就任.

大平正芳 第2次

期間:1979年11月9日-1980年6月12日.第35回衆議院議員総選挙後の自由民主党内の四十日抗争を制して就任.

ロッキード事件裁判で浜田幸一議員のラスベガス・カジノ疑惑発覚.日本社会党・公明党・民社党が浜田幸一議員の議員辞職を求めると自由民主党非主流派も同調.浜田幸一議員は議員辞職するも,5月16日に日本社会党・公明党・民社党が内閣不信任決議案提出.非主流派のうち中曽根派は不信任案に反対票を投じるも,三木派・福田派は本会議欠席.これによって,内閣不信任決議案可決.ハプニング解散となる.第12回参議院議員通常選挙,第36回衆議院議員総選挙の初の衆参同日選挙.

選挙中の6月12日,大平首相急死.

大平正芳 第1次

期間:1978年12月7日-1979年11月9日.田中派支援の下で自由民主党総裁選予備選挙で福田赳夫を降し,福田赳夫が本選を辞退したことで就任.

1979年10月7日,第35回衆議院議員総選挙.一般消費税導入を目指したことで自民党は過半数割れ.この結果に対して,福田派・中曽根派・三木派が大平正芳の辞職を要求.対して,田中派・大平派が新自由クラブとの連携を模索.四十日抗争と呼ばれる自由民主党内分裂の中,憲法第54条による30日以内国会召集期限が迫り特別国会開会.しかし,首班指名ができず散会.結局,自由民主党から大平正芳と福田赳夫が候補となり,自由民主党主流派の大平正芳が勝ち首班指名.

福田赳夫

期間:1976年12月24日-1978年12月7日.自由民主党総裁への就任に当たって大平正芳に実質2年後に禅譲するという大福密約があったという.

1977年7月10日,第11回参議院議員通常選挙.自由民主党は議席を伸ばすも与野党伯仲変化せず.1977年9月28日,ダッカ日航機ハイジャック事件で超法規措置.

大平正芳への禅譲を拒否して総裁選立候補するも敗北.記者会見時の「民の声は天の声というが,天の声にも変な声もたまにはある」は有名.

三木武夫

期間:1974年12月9日-1976年12月24日.田中金脈問題を受けて政治資金規正法[昭和23年7月29日法律第194号]改正.寄附制限導入.この法改正によって自由民主党内で反三木の動きが拡大.1976年7月27日,ロッキード事件で田中角榮逮捕.この逮捕を三木武夫が主導したとの疑念から田中派・大平派・福田派・船田派・水田派・椎名派が倒閣運動.田中・福田・大平三派が挙党体制確立協議会[挙党協]結成.自由民主党分裂危機.

1976年12月5日,任期満了に伴う第34回衆議院議員総選挙.自民党は事実上の分裂選挙となり,結果も過半数割れ.責任を取って三木武夫首相は辞任.

田中角榮 第2次

期間:1972年12月22日-1974年12月9日.小選挙区比例代表並立制を提案するも否決される.金大中事件で朴正煕政権による政治決着受入.1973年10月16日,第4次中東戦争勃発.日本政府は外交方針を転換しアラブ諸国支持.11月,懐刀の愛知揆一蔵相急死を受け内閣改造.

1974年7月7日,第10回参議院議員通常選挙.徳島選挙区で党執行部公認の後藤田正晴と現職の三木派・久次米健太郎が対立.結果は久次米健太郎当選.この三角代理戦争によって,三木武夫・福田赳夫が閣外へ.

1974年10月,文藝春秋が田中金脈問題追及.12月9日,椎名裁定によって三木武夫が自民党総裁に指名.

田中角榮 第1次

期間:1972年7月7日-1972年12月22日.1972年7月5日の自由民主党総裁選挙において福田赳夫を降して田中角榮が選出.第69回臨時国会において内閣総理大臣に指名.1972年9月29日,中華人民共和国と『日中共同声明』調印.日中国交正常化.同時に中華民国が日本と国交断絶.1972年12月10日,第33回衆議院議員選挙.

佐藤栄作 第3次

期間:1970年1月14日-1972年7月7日.大阪万博開催.よど号ハイジャック事件勃発.1972年5月15日,琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」により沖縄本土復帰.後継としては,佐藤の兄・岸岸信介の派閥を引き継いだ福田赳夫と佐藤派を引き継いだ田中角栄との争いとなった.

佐藤栄作 第2次

期間:1964年11月9日-1967年2月17日.

佐藤栄作 第1次

期間:1964年11月9日-1967年2月17日.1967年1月29日,第31回衆議院議員総選挙.

池田勇人 第3次

期間:1963年12月9日-1964年11月9日.第30回衆議院議員総選挙で自由民主党が勝利.第45特別国会で首班指名.1964年9月9日,喉頭癌治療のため入院.東京オリンピック閉会式翌日に辞任表明.後継として佐藤栄作を指名.

池田勇人 第2次

期間:1960年7月19日-1960年12月8日.第29回衆議院総選挙で自由民主党は14議席増の296議席獲得.日本社会党は23議席増となったものの民主社会党が分離しての選挙であったために145議席.国土計画である「全国総合開発計画」策定.所得倍増政策に対する国民の信を問うため衆議院解散.1963年11月21日に第30回衆議院議員総選挙.同選挙は平日に行われた唯一の選挙.

池田勇人 第1次

期間:1960年7月19日-1960年12月8日.第35臨時国会により首班指名.「国民所得倍増計画」策定.浅沼稲次郎暗殺事件.1960年11月20日,第29回衆議院議員総選挙.

岸信介 第2次

期間:1958年6月12日-1960年7月19日.第28回衆議院総選挙の結果,自由民主党は3議席減の287議席.社会党は8議席増の166議席となり改憲は阻止される.国防省・内政省設置,官選知事制度復活を目指すも廃案.安保闘争が繰り広げられる中,日米安全保障条約の強行採決.混乱の責任を取る形で第34通常国会閉会とともに辞任.1960年7月1日,自治省設置.

岸信介 第1次

期間:1957年2月25日-1958年6月12日.外務大臣・岸信介が内閣総理大臣臨時代理就任.そのまま内閣総理大臣となる.日本国憲法に代わる自主憲法制定を主張し第28回衆議院総選挙実施.

石橋湛山

期間:1956年12月23日-1957年2月25日.鳩山首相引退後,鳩山派を引き継いで自由民主党総裁選出馬.親米派の岸信介を抑えて総裁就任.しかし,脳梗塞により退陣.

鳩山一郎 第3次

期間:1955年11月22日-1956年12月23日.保守合同による自由民主党結成により発足.日ソ共同宣言に調印し日ソの国交回復がなったことを成果として内閣総辞職.

鳩山一郎 第2次

期間:1955年3月19日-1955年11月22日.第27回総選挙で民主党は185議席,自由党112議席,社会党右派左派合わせて全議席の3分の1を獲得.1955年10月13日,社会党左右両派が社会党再統一を実現し衆議院議席数を156とする.これに危機感を抱いた民主党と自由党は保守合同によって自由民主党を結成.55年体制が成立.但し,吉田茂・佐藤栄作・橋本登美三郎ら反鳩山派は鳩山総裁下での自由民主党には不参加.

鳩山一郎 第1次

期間:1954年12月10日-1955年3月19日.日本民主党と左右両社会党の支持により首班指名.早期解散を約束した上での首相就任.石橋湛山通産相答弁中に松永東衆議院議長が「憲法第7条により衆議院を解散する」という詔書を朗読,解散となった.鳩山首相が「天の声を聞いた」ための解散としたため「天の声解散」と呼ばれる.第27回総選挙実施.

吉田茂 第5次

期間:1953年5月21日-1954年12月10日.「外航船舶建造融資利子補給及び国家補償法」の成立と政府出資の計画造船の割り当てをめぐる贈収賄事件「造船疑獄」において自由党幹事長佐藤栄作の逮捕請求が行われる.これに対して,吉田内閣は法務大臣犬養健が検察庁法14条に定める指揮権を発動.こうした中,自由党を離党した鳩山一郎を総裁とする日本民主党を結成.内閣不信任案提出の動きを受けて内閣総辞職.

吉田茂 第4次

期間:1952年10月30日-1953年5月21日.吉田茂首相と社会党右派・西村栄一議員との質疑応答中,「バカヤロー」発言.これを原因として内閣不信任決議案が可決され解散.第26回衆議院総選挙が行われる.

吉田茂 第3次

期間:1949年2月16日-1952年10月30日.

吉田茂 第2次

期間:1948年10月15日-1949年2月16日.GHQ民政局は民主自由党幹事長・山崎猛を首班とした民主党・日本社会党・国民協同党連立内閣樹立を模索.しかし,吉田茂はGHQ最高司令官マッカーサー元帥の支持を取り付け民主自由党内も結束.山崎猛も議員辞職.吉田茂が内閣総理大臣となった.

与党が少数派であったため,1948年12月23日に衆議院を解散.

芦田均

期間:1948年3月10日-1948年10月15日.民主党・日本社会党・国民協同党との連立.民主党総裁.西尾献金問題,昭和電工事件で栗栖赳夫経済安定本部総務長官と西尾末広前副総理が逮捕.これに伴い総辞職.

片山哲

期間:1947年5月24日-1948年3月10日.日本社会党委員長.民主党・国民協同党との連立内閣.改正民法制定,刑法改正を行う.内務省解体,国家地方警察と自治体警察設置.

炭鉱を国家管理する臨時石炭鉱業管理法[昭和22年法律第219号]を巡って民主党幣原喜重郎派が離脱.社会党左派も造反し補正予算否決すると辞任.

吉田茂

期間:1946年5月22日-1947年5月24日.自由党総裁鳩山一郎が組閣準備に入るも,GHQから公職追放.鳩山一郎は,京都守護職松平容保の六男で宮内大臣も務めた松平恆雄に後継を依頼するも交渉整わず,東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めた吉田茂が後継となった.

日本国憲法の施行,第二次農地改革実施.

新憲法下における1947年4月20日の第23回衆議院議員総選挙,4月25日の第1回参議院議員通常選挙において日本社会党が第1党となったため辞任.

幣原喜重郎

期間:1945年10月9日-1946年5月22日.衆議院は翼賛体制が崩壊し,日本進歩党・日本自由党・日本社会党・日本協同党・日本共産党が結成される.民主的選挙のため,衆議院議員選挙法改正が行われた上で,1946年4月10日に第22回衆議院議員総選挙.日本自由党が第1党となるも過半数に達せず,幣原喜重郎は進歩党に入るとともに内閣存続を目指す.しかし,議会の反発により辞任.

東久邇宮稔彦王

期間:1945年8月17日-1945年10月9日.終戦内閣.「国体護持」と「一億総懺悔」を方針とし「平和的新日本ヲ建設シテ人類ノ文化二貢献セムコトヲ欲シ」という国家目標を掲げ連合国軍最高司令官総司令部[GHQ]に対応.GHQによる「政治的,公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書[人権指令]」の実行が共産革命が起こることを危惧し辞職.

鈴木貫太郎

期間:1945年4月7日-1945年8月17日.挙国一致内閣.終戦内閣.海軍大将.大政翼賛会総裁.義勇兵役法[昭和20年法律第39号]を制定し本土決戦に備えるも,内大臣木戸幸一・海軍大臣米内光政は講和を推進.戦局は悪化し,昭和天皇の聖断を仰ぎポツダム宣言無留保受諾.閣内不一致で聖断を仰ぐに至った責任を取って,「大東亞戰爭終結ノ詔書」を発したのちに辞任.

小磯國昭

期間:1944年7月22日-1945年4月7日.挙国一致内閣.陸軍大将.大政翼賛会総裁.翼賛政治会の支持を獲得のため,第2次近衛内閣以来の政務次官・参与官復活.米軍の沖縄上陸,中国国民党政府との和平工作[繆斌工作]失敗により辞職.

東條英機

期間:1941年10月18日-1944年7月22日.挙国一致内閣.大政翼賛会.首相・陸軍大臣・内務大臣兼務.海軍が海軍大臣に推薦する豊田副武大将の大臣就任を拒否.嶋田繁太郎大将が軍令部総長・伏見宮博恭王の勧めにより海軍大臣就任.12月8日,英領マレー侵攻および真珠湾攻撃.

1942年4月30日,第21回衆議院議員総選挙実施.翼賛政治体制協議会が結成され翼賛選挙となる.翼賛政治体制協議会は461人中381人が当選.

しかし,強引な戦時体制強化に対して,翼賛政治会内部で,旧立憲政友会・旧立憲民政党および右翼と大日本翼賛壮年団との間で亀裂が生じる.さらに,対米講和を求める岸信介商工相との閣内不一致により辞任.

近衛文麿 第3次

期間:1941年7月18日-1941年10月18日.9月6日の御前会議において,交渉の目処が立たなければ対米開戦という帝国国策遂行要領決定.対米交渉不調.強硬派である東條陸軍大臣の説得も不調となり総辞職.

近衛文麿 第2次

期間:1940年7月22日-1941年7月18日.挙国一致内閣.大東亜新秩序建設を国是とし,基本国策要綱を閣議決定.日独伊三国同盟を締結.民政党・政友会は解党し,新体制運動に同調し大政翼賛会に合流.急進派・松岡洋右外相の更迭のために総辞職.

米内光政

期間:1940年1月16日-1940年7月22日.挙国一致内閣.海軍大将.陸軍がドイツとの連携を求め,参謀総長閑院宮載仁親王を通じて畑陸軍大臣を辞職させる.米内首相が後任陸相を求めるも陸軍三長官会議[陸軍大臣・参謀総長・教育総監]が拒否.辞職に追い込まれる.

阿部信行

期間:1939年8月30日-1940年1月16日.挙国一致内閣.陸軍大将.1939年9月,ナチス・ドイツがポーランド侵攻.続いて,英仏がドイツに宣戦布告し第二次世界大戦勃発.大戦不介入を目指すも辞任に追い込まれる.

平沼騏一郎

期間:1939年1月5日-1939年8月30日.挙国一致内閣.大審院院長.枢密院議長.1939年8月23日,ナチス・ドイツがソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結したことに伴い辞任.

近衛文麿

期間:1937年6月4日-1939年1月5日.挙国一致内閣.昭和研究会と政友会中島派から政務官を起用.政友会鳩山派を排斥.盧溝橋事件と第二次上海事変によって日中戦争が拡大.国家総動員法[昭和13年4月1日法律第55号]制定.大日本党結党を目指すも辞任に追い込まれる.

林銑十郎

期間:1937年2月2日-1937年6月4日.民政党・政友会両党との対立の中,衆議院解散で挽回を狙うも第20回総選挙では与党昭和会・国民同盟が敗北.倒閣運動が本格化し辞任.

廣田弘毅

期間:1936年3月9日-1937年2月2日.挙国一致内閣.

岡田啓介

期間:1934年7月8日-1936年3月9日.1936年2月26日,皇道派陸軍青年将校による二・二六事件勃発.高橋是清大蔵大臣,齋藤實内大臣ら死亡.

齋藤實

期間:1932年5月26日-1934年7月8日.退役海軍大将.挙国一致内閣.

[高橋是清]

期間:1932年5月16日-1932年5月26日.内閣総理大臣臨時兼務.

犬養毅

期間:1931年12月13日-1932年5月16日.立憲政友会総裁.1932[昭和7]年5月15日,五・一五事件により襲撃を受け死去.

若槻禮次郎 第2次

期間:1931年4月14日-1931年12月13日.立憲民政党総裁.満州事変勃発により閣内不統一となり辞任.

濱口雄幸

期間:1929年7月2日-1931年4月14日.立憲民政党総裁.愛国社社員・佐郷屋留雄に銃撃され死去.

田中義一

期間:1927年4月20日-1929年7月2日.立憲政友会総裁.

若槻禮次郎

期間:1926年1月30日-1927年4月20日.憲政会総裁.

[若槻禮次郎]

期間:1926年1月28日-1926年1月30日.

加藤高明

期間:1924年6月11日-1926年1月28日.憲政会総裁.

清浦奎吾

期間:1924年1月7日-1924年6月11日.

山本權兵衛 第2次

期間:1923年9月2日-1924年1月7日.

[内田康哉]

期間:1923年8月24日-1923年9月2日.加藤友三郎首相が死去したため内田康哉外務大臣が皇室儀制令に基づく慣例により,2度目の内閣総理大臣臨時代理となる.1923年9月1日,関東大震災.

加藤友三郎

期間:1922年6月12日-1923年8月24日.天皇輔弼機関である元老会議は立憲政友会が内紛状態であることから加藤友三郎海軍大将を首相に推挙.立憲政友会側も憲政会に政権を奪われることを嫌い,高橋是清総裁,岡崎邦輔・山本悌二郎両総務,横田千之助幹事長が加藤友三郎海軍大将への協力を表明.ここに加藤友三郎に下命.

1923年8月24日,癌により死去.

高橋是清

期間:1921年11月13日-1922年6月12日.立憲政友会総裁.原敬亡き後の立憲政友会は混乱.閣内不統一となるに至り辞職.

[内田康哉]

期間:1921年11月4日-1921年11月13日.原敬首相が暗殺されると外務大臣であった内田康哉が皇室儀制令に基づく慣例により内閣総理大臣臨時代理となる.

原敬

期間:1918年9月29日-1921年11月4日.立憲政友会総裁.

寺内正毅

期間:1916年10月9日-1918年9月29日.米騒動により内閣総辞職.陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外は全て立憲政友会が占める本格的政党内閣.1921年11月4日,東京駅において暗殺される.

大隈重信 第2次

期間:1914年4月16日-1916年10月9日.立憲同志会総裁.

山本權兵衛

期間:1913年2月20日-1914年4月16日.

桂太郎 第3次

期間:1912年12月21日-1913年2月20日.

西園寺公望 第2次

期間:1911年8月30日-1912年12月21日.立憲政友会総裁.

西園寺公望

期間:1908年7月14日-1911年8月30日.立憲政友会総裁.

桂太郎 第2次

期間:1906年1月7日-1908年7月14日.

桂太郎

期間:1901年6月2日-1906年1月7日.1904年2月8日-9月5日,日露戦争.

[西園寺公望]

期間:1901年5月10日-1901年6月2日.

伊藤博文 第4次

期間:1900年10月19日-1901年5月10日.立憲政友会総裁.

大隈重信

期間:1898年11月8日-1900年10月19日.憲政党総裁.政党から初.

山縣有朋 第2次

期間:1898年6月30日-1898年11月8日.

伊藤博文 第3次

期間:1898年1月12日-1898年6月30日.

松方正義 第2次

期間:1896年9月18日-1898年1月12日.

進歩党から外務大臣として大隈重信が入閣.松隈内閣と呼ばれる.

1898[明治31]年3月15日,第5回衆議院議員総選挙.松方首相は選挙後も政権維持が困難として辞任.

伊藤博文 第2次

期間:1892年8月8日-1896年8月31日.

戦後財政を巡って伊藤首相と松方大蔵大臣が対立.進歩党党首・大隈重信の外相任命を巡って自由党党首・内務大臣・板垣退助が反発.松方正義・大隈重信による倒閣運動によって伊藤博文辞任.

松方正義

期間:1891年5月6日-1892年8月8日.

第2回帝国議会が,樺山資紀海軍大臣による海軍予算拡張問題で空転.初めて衆議院を解散.品川弥二郎内務大臣が選挙干渉を行ったことで陸奥宗光農商務大臣が抗議し辞任.第3回帝国議会においては,副島種臣新内務大臣が選挙干渉問題を追及しようとして内部謀略により辞任に追い込まれ,貴族院からも距離を置かれて辞任せざるを得なくなった.第3回帝国議会では民法商法施行延期法成案可決.

山縣有朋

期間:1889年12月24日-1891年5月6日.旧民法[明治23年法律第28号,第98号]成立.1890年公布,93年施行へ.旧商法[明治23年法律32号],1890年公布.1891年施行へ.

第1回衆議院議員総選挙により最初の帝国議会開会.商法及商法施行条例施行期限法律案可決.府県郡制公布.第一回帝国議会閉会とともに辞任.

三條實美

黒田清隆の首相辞任に伴う暫定内閣.

黒田清隆

期間:1888年4月30日-1889年10月25日.

大日本帝国憲法発布.「政府は議会・政党の意思に制約されることなく独自性を貫くべき」という超然主義を標榜.不平等条約改正交渉失敗により辞任.辞任と同時に,太政大臣公爵・三条実美の達による内閣職権が廃され,内閣官制が導入される.

伊藤博文

期間:1885年12月22日-1888年4月30日.

枢密院開設により初代枢密院議長となるために首相辞任.

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