現代法

1951[昭和26]年9月8日,サンフランシスコ平和条約が調印される.1956[昭和31]年,日ソ共同宣言が調印され,日本は国際連合への加盟を果たす.1955[昭和30]年には自由民主党・日本社会党が発足し55年体制が確立.法案の実質的審査は与党政調会によってなされることが定着していく.
地方自治に関しては1991年地方自治法改正,1995年地方分権推進法[法律第96号],1999年地方分権一括法[法律第87号]が制定され,機関委任事務が廃止され法定受託事務・自治事務に整理され,国地方係争処理委員会が新設された.
1990年代以降,民法は明治の法典編纂期,第二次世界大戦後の変革期と並ぶ第3の法制改革期にあるとされた.1996年,法制審議会が全面的見直しを内容とする民法改正要綱がまとめられる.2006年に法務省が改正検討を開始.2009年に債権法改正の基本方針を公表.法制審議会における審議を経て,2015年に改正要綱が法務大臣に答申される.2016年臨時国会で審議入りした改正法案は2017年に成立した.
憲法 民法 商法[商法 会社法 手形法] 行政法[行政手続法 行政代執行法 行政不服審査法 行政事件訴訟法 国家行政組織法 地方自治法 国家賠償法 個人情報保護法]

近代法再編期

1911[明治44]年,日米新条約が締結され,他の西欧列強とも新条約を締結し関税自主権を完全回復[第2次条約改正].日露戦争後,憲政擁護・閥族打破をスローガンとする護憲運動が本格化.原内閣は穂積陳重総裁・平沼騏一郎副総裁の臨時法制審議会に法制度全面改正を託す.臨時法制審議会は民法改正・刑法改正・行政裁判法改正・衆議院議員選挙法改正が諮問される.
1926[大正16]年には府県制・市制・町村制[法律第73号・第74号・第75号]改正により地方議会での普通選挙導入が実現.1929[昭和4]年には更なる改正[法律第55号・第56号・第57号]により府県に条例制定権が付与されて地方分権が強化.
民政党・浜口雄幸内閣のもとでロンドン海軍軍縮条約が批准され護憲運動はピークに達する.
1932[昭和7]年,五・一五事件で犬養毅内閣が倒れると政党内閣制の時代は終焉を迎え挙国一致内閣の時代となる.1936[昭和10]年には美濃部達吉の天皇機関説が排除されると政党内閣制の理論的基盤を喪失.1936[昭和11]年の二・二六事件を契機として軍部大臣現役制が復活.軍部による政治介入が常態化していく.1937[昭和12]年には大本営令[昭和12年軍令第1号]により宮中に大本営が設置されるが総理大臣の出席は認められなかった.ここに国務と統帥の統一問題が表面化することになる.
1938[昭和13]年,第1次近衛文麿内閣によって国家総動員法が成立.政党内閣制に代わる体制を模索する新体制運動が起こる.この流れが大政翼賛会へと結実し衆議院では翼賛政治会が結成される.地方自治も中央統制化が図られ,地方事務所・地方行政協議会・地方総監府が設置され,帝都体制強化のために東京都制[昭和38年法律第89号]が公布される.
東條英機内閣が成立し,総理大臣が陸軍大臣と内大臣を兼務すると国務と統帥の統一が図らずも実現.
しかし,日本の劣勢は覆いがたく,日本政府は連合国によるポツダム宣言を受諾し,大日本帝国は軍事的解体をされることとなる[昭和20年一般命令第1号].
日本の占領政策は連合国最高司令官総司令部[GHQ/SCAP]の指令・覚書を日本政府が立案し承認を得て実施するという間接統治によって行われた.ポツダム緊急勅令[昭和20年緊急勅令第542号]によって政府にはGHQからの要求を実行できるように包括的命令権が授権された.
マッカーサー最高司令官は天皇制存置・戦争放棄・封建制度廃止を内容とするマッカーサー・ノートを示し,これを受けてホイットニー民政局長が憲法草案を作成.日本政府は同案を受け入れ松本国務大臣が憲法改正草案要綱を作成.1946[昭和21]年4月17日,総選挙後に帝国憲法改正草案を発表.枢密院諮詢を経て,第90帝国議会にて審議され衆議院・貴族院で可決.11月3日に日本国憲法として公布,翌1947年5月3日に施行となった.日本国憲法施行に伴い,1947[昭和22]年10月に刑法の応急的改正が行われた[法律第124号].また,同年,家族法を中心に民法大改正[法律第222号]が行われた.この改正により20世紀型民法となったと言われる.
1947[昭和22]年には,裁判所法[法律第59号]・裁判所施行法[法律第60号]・検察庁法[法律第61号]・下級裁判所の設立及び管轄区域に関する法律[法律第63号]が制定.司法の独立が図られ,司法権の範囲が行政事件を含む範囲に拡大.最高裁判所に司法審査権・規則制定権・包括的司法行政権が付与された.

近代法形成期

天保年間にも老中・水野忠邦のもとでオランダ憲法・刑法・刑事訴訟法・民事訴訟法の翻訳事業が進められた.しかし,日本にとって万国公法が西洋の法体系へのファーストコンタクトだったといえよう.ところが,日本においては自然科学は別として,治国平天下の道は西欧に学ぶものはないとする考え方が浸透していた.また,西欧には人間の本質的な性質に基づく自然法則的な法という自然法の思想があった.これに対して,日本において法は統治技術そのものであった.もっとも,日本は大宝律令以来1000年に及ぶ法の歴史が存在する.そして,米国の法学者ウィグモアによれば世界にある16の法体系のうち,日本と英国でのみ判例法が職業的裁判官によって展開されたとしている.
このような状況の中で,明治政府は欧米から対等の国家として認められ不平等条約の改正の実現を目指していく.この不平等条約改正のために必須とされたのが西洋式法典編纂であった.
刑事法に関しては,公事方御定書の全国適用の時代から仮刑律を経て,1870[明治3]年,旧幕法と明清律の流れを汲む新律綱領が制定される.そして,1875[明治8]年から司法省による刑法編纂事業が始まり,元老院における審議を経て刑法[明治13年太政官第36号布告]が成立.
憲法に関しては,1881[明治14]年,大隈重信による国会開設奏議が行われ,これに対して,岩倉具視が憲法大綱領を示す.これに基づいて,伊藤博文が内閣制度を整え,憲法典編纂に着手.憲法審議のために枢密院を設置[明治21年勅令第22号].1889[明治22]年,皇室典範と憲法典が制定される.同時に,議院法[法律第2号],衆議院議員選挙法[法律第3号],会計法[法律第4号],貴族院令[勅令第11号]が公布される.こうして,1890[明治23]年に帝国議会が開会する.
1898[明治31]年,ボアソナードによって旧民法典が成立.法典論争が巻きおこり,旧民法施行延期を経て,法典調査会によって,民法総則・物権・債権編が編まれ1896[明治29]年の帝国議会で成立する[法律第89号].続いて,民法親族・相続編は1898[明治31]年帝国議会で成立[法律第9号].

幕藩法

徳川幕府が樹立された後においても,武家法の他に公家法も存続し,かつ,諸大名の領地においては藩法が存続した.但し,元和元[1615]年には諸大名の統制を目的として『武家諸法度』を制定.また,朝廷の統制のために『禁中并公家諸法度』を,諸宗本山に対する統制のために『寺院法度』,神社の統制のために『諸社禰宜神主法度』を制定する.こうした法度以外にも単行法令が「触」「達」として制定された.
第8代将軍徳川吉宗の治世には法典編纂が進む.徳川吉宗は大岡忠相に刑罰法規集編纂を命じ『享保度法律寄』が上達された.さらに,御定書掛三奉行によって判例の法規化が『公事方御定書』によってなされる.『公事方御定書』は将軍・老中・評定所・三奉行・京都所司代・大坂城代に交付された.
さらに,慶長20[1615]年から寛保3[1743]年までの「触」約3500が『御触書寛保集成』として編纂される.その後も触集成は続き,『宝暦集成』『天明集成』『天保集成』として歴代将軍の治世において編纂が行われた.以上は三奉行が編纂の中心を担ったが,評定所も刑事判決録である『御仕置例類集』,民事判決録である『裁許留』を編纂した.
諸藩も幕府による法典編纂に刺激され,公事方御定書・明清律・自藩古法に依拠する法典が編纂された.

戦国法

戦国時代に至っても,各種の法制定主体が併存する状況に変わりはない.むしろ,惣村と呼ばれる自治組織が寄合によって村掟・村議定などの成文法を制定していった.こうした在地社会法が公権力による法と結びつき補完しあった.
また,守護大名などから発展した戦国大名は地域公権力として領国内の一般法として分国法を制定した.この分国法は公家法・武家法・慣習法を統合・集成するという性質を有した.

鎌倉室町法

源頼朝が鎌倉に幕府を開いてより室町幕府を経て,明治維新によって徳川幕府が倒れるまで,日本は古代以来の朝廷と,武家の棟梁を首長とする武家政権が併存する統治構造が継続.特に,鎌倉時代・室町時代においては,朝廷が公家法の制定主体となり,幕府・在地領主が武家法の制定主体となり,荘園領主が本所法の制定主体として,それぞれの立法・行政・裁判を担った.
このうち,武家法は平安時代以来の武家社会の常識的生活規範である「理」が「権」による制定法よりも優越していた.

律令法

中国律令は春秋時代の晋の文公[BC696-BC628]時代に趙宣子が策定した刑書を嚆矢とし,戦国時代の魏の文候[-BC396]時代に李悝[-BC395]が諸国の法を体系化し『法経六篇』を編纂したことで律が確立指定く.その集大成は西晋の武帝[236-290]による『秦始律令』と言える.
一方,日本の場合,中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変[622]に始まる大化の改新によって律令の導入が開始され約半世紀という非常に短期間に諸制が整備された.
もっとも,日本律令は中国の律令をそのまま導入したものではない.また,日本の国制も律令制一色になった訳ではなく,日本古来からの氏族制を色濃く残し,氏族制と律令制の二元性を有していたといえる.