『藩』という名前を使う。

 今では、当然のごとく『藩』といい、さも江戸時代においても『藩』という呼び方をしていたように考えてしまう。

 けれども、この『藩』という名前が実際に一般に使われるようになったのは幕末から明治維新にかけてのことだと言われている。

 それ以前は、『藩』という公器の意識があったかどうかは別にしても、『藩』という呼び方は一般ににはなされなかった。

 では、どういう呼び方をしたのか。

 『藩』という呼び方をしないと非常に不便ではないのか。米沢藩とか会津藩とか、薩摩藩とか長州藩とか。一体どういう呼ばれ方をしたのか。

 第一、時代劇や大河ドラマの台詞を書き換えなくてはならないではないか。そんな本筋とはまるで関係のない、余計なお世話というようなことまで、つい考えてしまう。

 『藩』という呼び方が一般に使われるようになったのは、と書いた。

 一般に人の口に上るようになったのは確かに幕末から明治初期のかけてとされる。

 しかし、この言葉そのものが、今に意味するところと意味を同じくして使われた、その始まりは、一般に使われ始めたときと同じ頃ではない。

 『藩』とは、そもそも、古代中国帝室を諸国王や諸侯が守護し奉っている、そういう状態を表したものである。

 中国で藩とは屏の意味を持つという。そして、この藩なる言葉は『藩屏』というように二つ合わせて用いられた。この藩屏によって中央を守護したのである。

 この藩屏なる不可分一体化した言葉を分けたのが藩である。

 さて、この藩なる言葉がひとつの言葉として、今に連なる意味を持つようになるのは、新井白石の手による『藩譜』という諸大名337家の事蹟を記したものが最初という。

 それでは、幕末までは『藩』のことをどう呼び習わしたのか。

 そもそも、武士たるものは、組織に奉公するのではなく個人たる主君に仕えるものである。そうであるから、例えば、『薩摩藩』は『島津中将家中』と言った。
 これは、『熊本藩』の場合は『肥後少将家中』となる。

 また、『藩』は幕府の藩屏を意味するから、『藩』が一般的になっても、家名に『藩』を付けて呼ぶことはない。

 加えて、国持大名の場合は国名を冠して呼んだ。
 これだと、『薩摩藩の』は『薩摩の』となるし、あるいは『薩州の』となることになる。
 この呼び方は、薩州島津家、加州前田家、土州山内家、備後阿部家、若狭酒井家、奥州伊達家、長州毛利家、阿波蜂須賀家、芸州浅野家と尾州と紀州の徳川家に関して通用した。

 この藩という名前によって武士の仕えるのは『藩主』ではなく、地域体である『藩』、地域の公器である『藩』に昇華したとも言える。
 この場合、藩という呼び方こそがそのバロメータとなることになる。

 そして、歴史の面白さは、こうした意識が浸透し始めた頃が、藩が解体され新しく中央集権型の縣が設置される前夜であったということだ。

 日本の地方自治はここでその歩みをしばし休めることになる。

[2002(平成14)年7月7日(日)記]