1945年 主な出来事
4/7 (土) 旧暦2/25 丙午 友引 鈴木貫太郎内閣成立。この内閣の性格は終戦内閣とも言われ、その使命はいかにして終戦に導くかであり、内閣書記長官迫水久常、陸軍大臣阿南惟幾などの協力を得て天皇裁断でポツダム宣言受諾を選び、終戦の幕引きを行うことになる。
6/8 (金) 旧暦4/28 戊申 先勝 内大臣木戸幸一、「時局収拾対策試案」を起草。年下半期においては戦争遂行能力は事実上喪失するとの認識を示し、「天皇陛下ノ御親書ヲ奉シテ仲介国ト交渉」を進言。(外務省編纂『日本外交年表並主要文書』下巻616〜617頁および『木戸幸一日記』下巻1208〜1209頁)。
8/11 (土) 旧暦7/4 壬子 仏滅 支那派遣軍総司令官岡村寧次大将がポツダム宣言受諾報道に接して、「数百万の陸軍兵力が決戦を交えずして降伏するが如き恥辱は、世界戦史にその類を見ず、派遣軍は満8年連戦連勝、(略)百万の精鋭健在のまま敗残の(蒋介石の)重慶軍に無条件降伏するが如きは、いかなる場合にも絶対に承服し得ざる所なり」の電報を本営に送る。
8/14 (火) 旧暦7/7 乙卯 先勝 「最後」の御前会議が開催される。この会議は閣議と最高戦争指導会議の連合会議であり,出席者は首相の鈴木をはじめとする全閣僚と参謀総長梅津,軍令部総長豊田,枢密院議長平沼,内閣書記官長迫水,総合計画局長官池田,陸軍省軍務局長吉積等(『終戦史録』696頁)。午前11時から宮中の防空室で開催され,天皇は梅津,豊田,阿南らの反対論に耳を貸したのち,「自分ノ非常ノ決意ニハ変リナイ 内外ノ情勢,国内ノ情態彼我国力戦力ヨリ判断シテ軽々ニ考ヘタモノデハナイ 国体ニ就テハ敵モ認メテ居ルト思フ毛頭不安ナシ……戦争ヲ継続スレバ国体モ国家ノ将来モナクナル即チモトモ子モナクナル 今停戦セハ将来発展ノ根基ハ残ル……自分自ラ『ラヂオ』放送シテモヨロシイ 速ニ詔書ヲ出シテ此ノ心持ヲ傳ヘヨ」(『敗戦の記録』290頁)と自らの考えを示し聖断を下した。
8/15 (水) 旧暦7/8 丙辰 友引 ポツダム宣言受諾の玉音放送が流れる。同時に、陸軍大臣阿南惟幾は、「一死以て大罪を謝し奉る」、「神州不滅を確信しつゝ大君の深き恵にあみし身は言ひ遺すべき片言もなし」との遺書を残して割腹自殺。
10/15 (月) 旧暦9/10 丁巳 赤口 GHQ経済科学局長クレーマー大佐記者会見。「三井、三菱、住友などの財閥については目下種々研究中で、ポツダム宣言に沿つてその解体を考慮してゐる……財閥に対処する根本原則は二つある。第一はこれら財閥は戦争中巨額の不当利得を得たが、彼等から戦時利得を吐き出させ、すべての日本人に戦争が決して有利に事業でないといふことを、深く脳裏に刻みつけることである。第二には全体主義的な独占力を持つた経済勢力の破砕である……」と発言。
この頃から、大日本帝国憲法改正の動きが起こる。昭和21年1月末までには、憲法問題調査委員会(松本委員会)が審議の末に3案を成立させるも、保守的な内容だったために、マッカーサー・ノート及びSWNCC-228(国務・陸軍・海軍三省調整委員会文書228号、1946年1月11日GHQ送付)に基づく改正案が作成されることになる(後の日本国憲法)。
なお、マッカーサー・ノートの概要は、@天皇は元首であり、皇位は世襲である。天皇の職務および職能は、憲法に基づき行使され、憲法の定めるところによって国民の基本的意思に対して責任を負う。A戦争を放棄し、そのための手段をも放棄する。B華族制度の廃止。予算の型は、イギリスの制度に倣う、というものであった。
10/18 (木) 旧暦9/13 庚申 先負 総司令部経済科学局クレーマー大佐、住友第7代総理事の古田俊之助(1886年〜1953年)と会見。住友本社の解散を指示。
10/22 (月) 旧暦9/17 甲子 先勝 GHQは、「主要金融機関又は企業の解体又は生産に関する総司令部覚書」を発令。財閥資産の恣意的処分を防止し、解体、清算の制限を行うことを目的として、三井・三菱・住友・安田等の15財閥にその事業内容、資本構成等の報告の提出を指令した。