畠山政長の墓
<2014/04/19>
大阪市平野区の正覚寺に畠山政長[1442-1493]の墓はあります.応仁の乱[1467-1477]の引き金を引いた畠山政長[尾州家]は畠山家の家督を畠山義就[1437-1491;総州家]と争いました.畠山政長には第8代将軍足利義政と管領・細川勝元が,畠山義就には将軍の弟の足利義視と山名宗全が与して京都を舞台に戦いを繰り広げます.しかし,細川勝元が山名宗全の外孫に当たる細川政元に家督を譲り,山名宗全も孫の山名政豊に家督を譲り,東西両軍の和睦の土壌が整うと,1473[文明5]年に,山名宗全と細川勝元が相次いで死去.翌年には,第8代将軍足利義政が義尚に将軍職を譲位.更に,山名政豊と細川政元との間で和睦が成立.山名軍は同じ西軍であった畠山義就を東軍とともに攻撃するに至ります.
1475[文明7]年には西軍の斯波義廉が斯波義敏派の又守護代織田敏定討伐のために尾張に下向.足利義視も兄の足利義政に恭順.1477[文明9]年に畠山義就が畠山政長討伐のために河内に下向.大軍を擁していた大内政弘も第9代将軍足利義尚から周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵されたことで京都を離れます.これで応仁の乱は終焉を迎えました.
しかし,畠山政長の本拠地の一つである河内に入国した畠山義就が河内守護代・遊佐長直を若江城から駆逐し,河内を勢力圏に組み込んだ他,大和国も勢力圏に組み込みます.
応仁の乱は終結したのですが,畠山政長と畠山義就との闘いは河内・大和両国を舞台として継続されることとなります.
細川政元が管領となると畠山政長は幕閣でも逼塞を余儀なくされます.第9代将軍足利義尚が亡くなり,足利義材が第10代将軍に就くと幕府で権勢を回復.畠山義就が亡くなると,将軍とともに畠山義就の子・基家を追い詰めます.
ところが,1493[明応2]年,細川政元は畠山基家討伐のために第10代将軍足利義材と畠山政長が河内に出兵した間隙を突いて,将軍足利義材を廃し,堀越公方・足利政知の子の足利義澄を第11代将軍に据える明応の政変を日野富子と前政所執事・伊勢貞宗の後援の元で実行.畠山政長は正覚寺を包囲されて自害.足利義材は龍安寺に幽閉されます.