[悪源太義平]

 「悪源太義平っていうと、木曽義仲の父親を討った人だね。源八幡太郎義家の孫の為義の嫡男の義朝の子だ」
 「子の子って、源義朝の子でいいじゃない。永治元(1141)年に三浦義明の娘との間に生まれたのが義平っていわれているわね。但し、これにはいろいろな考え方があって、義平が三浦の娘の子だって確たる証拠はないとされているわね」
 「『平治物語』や『続群書類従』などでは三浦の血を引いていることになっているね。それに、義朝は『上総の御曹司』って呼ばれていたし、義平も『鎌倉悪源太』と呼ばれたしね」
 「そういうことから考えると、三浦の血が流れているということは考えられるわよね。でもね、『尊卑分脈』や『系図纂要』によると、義平の母は『橋本遊女』ってことになっているのよ」
 「そうすると、義平と三浦氏との関係を説明しにくくなるよね」
 「それは否定できないわね。義平は父親の義朝が上洛した後も坂東で三浦一族の庇護を受けているからね。こういうことを考えると、血の繋がりがあったにせよ、なかったにせよ、三浦氏との間に何がしかの深い繋がりがあったんでしょうね」
 「久寿2(1155)年には、三浦義明の次男荒次郎義澄とともに三浦党を率いて、叔父の源帯刀先生義賢を武蔵国比企郡の大蔵館で討ち取っているね、ここにも三浦一族との関係が伺えるね」
 「それこそ、『鎌倉悪源太』の名の由来ね。この闘いは源氏の総領を争ったものだったけど、武蔵国比企郡にあった秩父党と鎌倉の三浦党という坂東土着武士の覇権争いでもあったわけね」
 「鎌倉悪源太義平はその後もその名に恥じない活躍をしたけど、平治の乱で父義朝が坂東へ逃げる途中で舅である尾張の長田庄司忠致に暗殺される(平治2年1月3日)と、京へとって返し平家の軍勢に闘いを挑むも虚しく、捉えられて獄門台の露と消えたんだね」
[出羽合戦] 慶長5(1600)年10月1日

 「出羽合戦っていうのは、上杉家と最上家との間で繰り広げられた、もう一つの関が原戦、つまりは関が原の東北版だね」
 「そうね。まず、西軍に属した上杉家が兼続の指揮のもとで、東軍に属した最上家領へ侵攻するのよ」
 「9月のことだね。13日には現在の山形県山辺町にある畑谷城を陥落させ、続いて秋田大森の平鹿(ひらか)郡大森城で両軍が激闘を繰り広げる」
 「そして、最上義光(よしあき、55)は山形の長谷堂城に立て篭もること半月」
 「上杉勢が圧していたわけだ。このままだと、上杉の勝利かと思われた矢先、城を取り囲んでいた上杉軍が突如として包囲網を解いて撤退を開始するんだね」
 「当時の通信網は現在のようではないからね。9月30日になって、ようやく関が原で西軍が敗退したとの知らせが上杉家に届いたのよ。西軍が敗れたとあっては、何時までも最上を攻めているわけにはいかないわね。今度は背後から攻められる可能性が出てくる」
 「上杉景勝(46)の2万余の軍勢が直江兼続(41)の指揮により包囲を解いて突然に撤退を開始。ここぞとばかりに追撃を行う最上軍。両者は道幅の一際狭くなった山形から長井へ至る途上の狐越街道で遂に激突、血で血を洗う闘いを繰り広げる」
 「でも、もはや形成が完全に逆転ね。最上軍は庄内へと侵攻して一円を制圧するのよ。そして、東北の関が原は幕が下りる。とはいかなくて、さらに追い討ちをかけるように、徳川家の采配によって、最上家は庄内3郡を加増、一方の上杉家は会津120万石から米沢30万石へと大幅に厳封されるのね」


[信濃源氏]

 「信州には11世紀から12世紀にかけて信州には源氏の系統が根を張るのね。例えば、村上氏も源氏。村上氏は清和源氏の源 頼信の次男の頼清の子の仲宗に始まるわ。仲宗の次男の顕清が兄の惟清が白河法皇を呪詛した罪に連座して信州に配流され土着したのが始まり。その子の為国が村上判官代と称して村上氏の祖となるのね」
 「同じように白河法皇を呪詛した罪によって信州に配流され土着した人に清和源氏の僧静実もいるね。この人の系統は、現在の須坂にあたる高井郡井上を名字の地として、井上三郎太郎満実から太郎遠光、時田光平、高梨盛光を輩出ている」

 「まだいるわね。今度はメジャー。源氏の嫡流の源 義家の弟の新羅三郎義光の三男の盛義は佐久郡平賀郷に土着して平賀冠者を称して、その系統は筑摩に進出し捧(ささげ)、大内、小野、犬甘(いぬかい)などの筑摩一族を排出している」
 「続けるよ。同じく源 義家の弟の新羅三郎義光の五男の親義は筑摩郡岡田郷(松本)に土着して岡田冠者を称している」
 「こうした源氏の系統が治承・寿永の内乱で立ち上がるのわけね。以仁王の令旨は源 行家によって、岡田親義、平賀義信、源 義朝の弟の義賢の子で木曽の中原兼遠に匿われていた木曽義仲に伝えられたからね」
 「話がそれるけど義賢っていうのは、久寿2年8月に義朝嫡男悪源太義平によって討ち取られた人だね。この事件には武蔵国における勢力争いと源氏の嫡流争いが絡んでいるんだね」