津久土城

別名を上杉塁と言って上杉時氏が守ったと言い伝えられています.東京にあるお城です.

今は筑土八幡宮が鎮座しています.

ところで,この城将と伝わる上杉時氏というのは誰なのでしょうか.上杉時氏は関東管領だったというのが伝承です.ところが,関東管領だった人物に上杉時氏という人はいないことが分かっています.但し,上杉一門で戦国時代に時氏を名乗った人はいない訳ではありません.

関東管領・山内上杉憲房(1467-1525)は実子の憲政(1523-1579)が幼かったために,第3代古河公方・足利高基(1485-1535)の次男・足利賢寿王丸を養子に迎えて山内上杉憲広(-1551)として関東管領職を継がせています.山内上杉憲広は扇谷上杉朝興(1488-1537)の呼び掛けに応じて,北条家第2代・北条氏綱(1487-1541)に対抗するための同盟を結びます.この同盟には山内上杉憲広の叔父の小弓公方足利義明(-1538)も含まれていました.

1524(大永4)年に,太田資高(1498-1547)が祖父太田道灌謀殺に対しての積年恨みから北条氏綱に与して扇谷上杉朝興の居城であった江戸城を北条軍に明け渡します.これにより,江戸城は北条氏の前線基地となります.

さて,江戸城を奪われた扇谷上杉朝興と同盟を組んだ古河公方家出身の関東管領・山内上杉憲広の兄に足利時氏という人物がいるのです.この足利時氏は,第2代古河公方・足利政氏(1462-1531)が隠居後に開いた甘棠院の住持・甘棠院二世雲岳となります.

1529(享禄2)年から1531(享禄4)年に掛けて,古河公方家内部で第3代古河公方・足利高基とその子の晴氏との間で抗争が生じます.この対立の背景には,足利高基が子の晴氏の妻に北条氏綱の娘をむかえ,勢力の回復を図ろうとしたことが考えられています.足利晴氏は関東管領山内上杉憲広の兄です.この抗争は足利晴氏の勝利で終わり,足利晴氏が第4代足利公方となります.晴氏は簗田高助の娘を正室として迎えています.もっとも,1538(天文7)年の第一次国府台合戦において叔父の小弓公方・足利義明を斃すために,北条氏綱と同盟して,その娘である芳春院を側室(後に継室)として迎えることになります.

同じ時,前関東管領・山内上杉憲房の子・憲政が小幡氏に擁立され,関東管領・山内上杉憲広に叛旗を翻します.この抗争は山内上杉憲広の敗北に終わり,山内上杉憲広は1531(享禄4)年に上総国宮原に退去しました.

もし,津久土城こと上杉塁を守っていたのが山内上杉憲広の兄の足利「時氏」であったとすると,山内上杉憲広が関東管領職を失った前後に足利時氏は津久土城を去ったのでしょう.もちろん,定かではありません.

確かなのは,足利時氏は叔父の甘棠院開山・貞巌昌永の跡を継いで甘棠院二世・雲岳周揚となっていることです.

2016年2月27日再訪

posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.