富山城は,加賀前田家の分家である越中前田家の居城として知られる.
しかし,富山城の起源は古く,天文12[1543]年頃,越中東部を支配する守護代・椎名長常の勢力圏に進出する目的で,越中西部を支配下に置く,同じく守護代・神保長職[-1572]が家臣の水越勝重に築城させたことが始まりという.当時,椎名長常は越後守護代・長尾為景[1486-1543]に従属し,長尾家による越中侵攻の先兵の役割を担っていた.
神保長職は,永禄3[1560]年に,上杉謙信による猛攻に遭い富山城を奪われ,増山城への後退を余儀なくされている.上杉家への反抗的態度は継続したが,結局は神保長職は上杉謙信に従属.
永禄9[1566]年,長続連,遊佐続光,八代俊盛らの畠山家重臣が当主の畠山義綱父子を追放するというクーデターが勃発.このクーデターの背景には能登七人衆の中心人物であった温井総貞を畠山義綱が暗殺したことがある.このクーデターを契機として,神保長職は上杉謙信とともに畠山義綱の復帰に尽力.この動きに反発した椎名康胤が,永禄11[1568]年に上杉家から離反し武田信玄に与する.さらには,椎名家は一向一揆衆とも同盟.
この事態に対して,神保家中は嫡子・神保長住を擁立する反上杉の家老・寺島職定と親上杉の家老・小島職鎮が対立.上杉謙信の軍事介入によって反上杉派は神保家中から一掃.神保長住は京都へと逃れ織田信長に仕えた.
神保家の家督は長住の弟・長城が継承するが,父の長職とともに再び反上杉の立場を鮮明にし織田信長に与するようになる.間も無く,長職は世を去る.天正4[1576]年,室町幕府将軍・足利義昭による第3次織田信長包囲網の形成によって,上杉謙信が越中侵攻を行い神保家の居城であった増山城も落城.長城は討ち死にしたと考えられ,ここに神保家の嫡流は滅亡する.
その後,神保長住は天正6[1578]年,上杉謙信の急死を受けて,織田信長から佐々長穐らを付けられて飛騨国から越中国へ侵攻.国人の斎藤信利,小谷六右衛門,二宮長恒らを従えて増山城を奪還.斎藤道三の末子の斎藤利治が派遣され,太田本郷城を拠点として河田長親率いる上杉軍を月岡野の戦いで打ち破る.一連の戦いで越中国は織田軍の支配するところとなり,神保長住は神保家ゆかりの富山城に入城を果たす.ところが,神保家中は親上杉方であり,長住は天正10[1582]年に小島職鎮,唐人親広らの急襲を受け虜囚となる.織田軍による反転攻勢によって親上杉勢は一掃され神保長住は救出されるが,統治能力を問われて追放された.
続いて,富山城主となったのは佐々成政.その佐々成政は織田信長の死後,豊臣秀吉と対立.天正13[1585]年に豊臣秀吉によって富山城を包囲され降伏開城.富山城は破却の運命となる.
前田家が越中国をも支配下に置くと,前田利長が隠居城として用いた.但し,火災によって富山城が焼けたために,隠居城は高岡城へと移され,津田義忠が富山城代を務めた.
寛永16[1639]年,加賀藩主・前田利常が次男の利次を分知させて富山藩が成立すると富山城が居城とされ,以降,明治維新まで続くこととなる.
富山と言えば再興に成功した地方都市のモデルとして知られている.その立役者はライトレール.しかし,愛すべき市電も忘れてはならない.
posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.