現存天守12城の一つ.
織田信長の叔父の織田信康が1537(天文6)年に築城したと伝わります.織田信康は岩倉織田家の織田信安の後見を務める一方で,兄の織田信秀に従って今川・松平軍との小豆坂の戦いに活躍しています.
この頃,尾張の隣国の美濃では,斎藤道三が守護の土岐頼芸を追放.織田信秀は土岐頼芸を保護.1544(天文13)年に土岐頼芸の美濃守護職復権を掲げて,織田信秀が美濃に侵攻します(加納口の戦い).この戦いは織田軍の大敗に終わり,織田信康はこの戦いで討死します.
織田信康の死後は子供の信清が犬山城の城主となります.織田信清は1558(永禄元)年に織田信長と同盟して岩倉織田家の織田信賢が城主を務める岩倉城を攻めています(浮野の戦い).しかし,岩倉織田家の旧領地の分配を巡って織田信長と対立.最初は織田信長方の楽田城を攻め取るなどしたが,1564(永禄7)年に犬山城を攻められ甲斐に逃れました.
その後,織田信長の治政下で池田恒興,信長の子の織田勝長(兄の織田信忠とともに二条御所にて明智光秀に攻められ討死)が城主となり,本能寺の変の後は織田信長の子の織田信雄(大和宇陀松山藩初代藩主)の支配下となります.
小田原征伐の後,織田信雄が徳川家康旧領への移封を拒否したことで改易.代わって,豊臣秀吉の家臣である石川貞清が小田原征伐の功績によって犬山を与えられ犬山城を美濃金山城の建材を用いて改修します.
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは石川貞清は西軍として犬山城に籠城.敗戦後は,東条松平家で清洲藩主となった松平忠吉(徳川家康の四男)の付家老の小笠原吉次が城主となり犬山城を再び改修.1602(慶長12)年に松平忠吉が早世すると小笠原吉次は佐倉に移封.代わって,徳川家康の小姓であり徳川家康の子の徳川義直の守役の平岩親吉が,1607(慶長12)年に徳川義直が尾張藩主となったことに伴い附家老として犬山城に入ります.1611(慶長16)年に平岩親吉が嗣子無く没すると甥の平岩吉範が城代として1617(元和3)年まで城を守ります.
その後,徳川家康の命令によって成瀬正成が尾張藩の附家老となり犬山城に入ります.以降は成瀬家のお城です.
posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.