和歌城

茨城は八千代にある和歌城.

この城は和歌氏が築城したとされます.後に,和歌氏は勢力を拡大した多賀谷氏の傘下に入いります.永正[1504〜1521]年間に,城主の和歌十郎が北条氏に内通したとして,多賀谷家植[1480-1554]が赤松民部に命じて和歌十郎を討伐.以降,赤松氏が和歌城の城主となります.

多賀谷三経[1578-1607]は一時期を和歌城で過ごしています.1590[天正18]年の豊臣秀吉による小田原征伐の後,その命により,多賀谷氏は,結城氏を相続した結城秀康の家臣とされます.これに対して,多賀谷三経の父の多賀谷重経[1558-1618]は反発して佐竹氏のもとに走ります.そして,実子の三経に代わって佐竹義重の子の宣家[後の岩城宣隆;1584-1672]を養子として多賀谷の家督を譲ります.

多賀谷重経は1592[文禄元]年に文禄の役に非協力的との理由により下妻城を没収.1600[慶長5]年の関ケ原の戦いでは上杉景勝[1556-1623]に内通したとして改易.

この結果,多賀谷宣家は実家の佐竹氏に戻り,海道平氏の名門岩城氏を相続して出羽亀田藩藩主となります.一方,多賀谷重経の長男・三経は越前に転封となった結城秀康に従って越前国柿原に移りました.

和歌城主の赤松氏も結城氏に従って越前に移り,和歌城は役割を終えたのです.

上の写真は和歌城にある赤松裕弁[1330-1409]の供養塔.赤松裕弁は川尻赤松氏の祖で,播磨国守護赤松氏の一族.嘉吉の乱の際に常陸まで逃れてきて川尻の地に土着し,多賀谷氏に従ったとされる.季範,祐俊,高海と続きますが,越前に移った一族の他に,この地に残った一族もありました.

posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.