仙北地方の雄・小野寺氏の居城.小野寺氏は『下野国志』に小野寺禅師入道義寛[1123-1203]が下野国都賀郡小野寺村に小野寺城を築城したとあるように,下野国を発祥の地とします.小野寺義寛は山内須藤義通の子であり,諱は道成または道房とも言われます.京都において滝口武士を勤めた後,源為義[1096-1156]に従って坂東を転戦し,戦功によって下野国都賀郡小野寺七ケ村に所領を得たとされます.
当時,小野寺の地の東は小山氏の勢力圏内であり,西は藤原姓足利氏の勢力圏内でした.そして,小野寺義寛は源為義と主従関係を結んでいたと考えられる藤原姓足利氏の足利家綱の孫・乙姫が義寛に嫁ぎ,同盟関係を築いています.但し,源為義・義朝父子が敵味方に分かれた保元の乱[1156]では家綱の子・俊綱[-1181]は義朝方として参戦.ところが,源義重[1114-1202]が金剛心院領新田荘の下司に任じられ,平重盛[1138-1179]が新田義重に足利荘を与えるに及んで,藤姓足利氏と義国流源氏との決定的な対立が生じます.藤姓足利俊綱は足利荘を確保するため,平重盛家人で藤原秀郷流伊藤氏の藤原忠清[-1185]に接近し,1180[治承4]年の以仁王の挙兵に当たっては俊綱の嫡子・忠綱が藤原忠清の軍に加わって戦功を立てています.この戦功の恩賞の配分を巡って,恩賞を独占する藤姓足利惣領家と恩賞に漏れた一門との間で亀裂が生まれ,少なからぬ一門が挙兵した源頼朝の軍に加わったと考えられています.
1183[寿永2]年,源為義の三男で常陸国信太荘を本拠地としていた源[志田]義広[-1184]に同調した藤姓足利忠綱は反源頼朝を鮮明にします.このとき,藤姓足利一門の小野寺道綱,戸矢古有綱,佐野基綱,阿曽沼広綱,木村信綱は惣領家を見限り,逆に源頼朝方に与し,源頼朝方の小山朝政の元へと走ります.
藤姓足利忠綱は野木宮合戦にて源頼朝軍と交戦.源頼朝方の和田義茂・佐原義連・葛西清重・宇佐美実政に攻められ,家人の桐生六郎によって殺害されてしまいます.
その後,小野寺道綱は源頼朝の弟・範頼[1150-1193]に従って周防から豊後に掛けて転戦.さらに,源頼朝[1147-1199]の奥州征伐に従軍.戦功によって出羽国雄勝郡の地頭職に補任.
小野寺道綱は鎌倉に居を置き,地頭職を得ていた出羽国雄勝郡には入部しなかったと考えられています.そして,出羽国雄勝郡へは庶子の重通を派遣し,稲庭城を経営の拠点としたものとされます.
小野寺氏の嫡流は依然として下野国に留まりましたが,小野寺通義の子・顕通が下野国の小野寺家の小野寺通氏の跡を継いだことで実質的に出羽小野寺家が小野寺家の嫡流に.
その後,宝治合戦[1247]で三浦氏が滅んだ後に三浦泰村[1184-1247]の次男・三浦景泰が姉の夫・小野寺道業の庇護を受けて小野寺経道[1249-1293]を名乗り稲庭に入ったと伝わります.経道の子・忠道は惣領となり,その弟・道直は西馬音内を本拠地として西馬音内氏の祖となり,同じく弟・道定は湯沢を本拠地とし湯沢氏の祖となっていきます.三浦景泰の流れを汲む小野寺氏は仙北小野寺家と呼ばれ,出羽小野寺家とは別家を立て,下野小野寺家を包括し小野寺氏の惣領家の地位にあった出羽小野寺家が京都にあって室町幕政に参画していたのに対して,その代官的な立ち位置で仙北地方の統治を担っていたと考えられます.
仙北小野寺氏継の子・泰道[1403-78]のときの長禄年間[1457-60]に出羽国に南部氏が侵攻.この戦乱の中で,惣領家の小野寺道有は出羽に戻ったものの討死したとも考えられています.仙北小野寺泰道も,1458[長禄2]年,南部家の仙北郡代・南部右京亮に敗れ南部家に組み込まれます.しかし,湊安東氏の支援と佐藤忠継の知略をもって,1465[寛正6]年から1468[応仁2]年の4年間にわたり南部氏と戦い,遂に仙北地方から南部勢力を駆逐.これ以降,仙北小野寺泰道は本拠地を稲庭城から沼館城に移します.ここに,仙北小野寺泰道は惣領としての立場に立つようになったのです.
小野寺泰道の子とされる稙道[1487-1456]は出羽から上洛して室町幕府第10代将軍足利義稙[1466-1523;在位:1490-1494,1508-1520]と12代将軍足利義晴[1511-1550;在位:1521-1546]に仕えました.父・小野寺泰道が死去すると出羽国に帰国し家督を承継.稲庭・川連・三梨・東福寺・西馬音内・山田・田代・高寺など雄勝郡内の各郷の一族を統括するとともに,「山北屋形」もしくは「京都扶持衆」として仙北三郡・由利郡の国人衆,六郷氏,本堂氏,戸沢氏を従えます.しかし,1546[天文15]年に家臣の横手城主・大和田光盛らの小野寺家中内紛のために命を落としました[平城の乱].
暗殺された小野寺稙道の子・景道[輝道;1534-1597]は庄内の大宝寺に庇護され生き延びます.後,家臣の八柏館主・八柏道為[-1595]や小野寺一門に擁立され,横手城主・大和田光盛を討ち取って横手城に入りました.
posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.