横手城

秋田の横手にある小野寺氏の城.

天文・弘治年間[1532-1557]に小野寺氏によって築城.

小野寺氏の家人である横手氏,大和田氏,金沢氏などが城将を務めました.小野寺稙道は横手城主・大和田光盛らによって殺害され横手城は,一時,小野寺氏の支配から脱します.しかし,1577[天正5]年,小野寺稙道の子・小野寺輝道が大宝寺氏などの支援を受けて横手城を奪還.大和田光盛を討ち取って,居城を沼館城から移しました.この小野寺輝道の時に,最上郡の金山城・鮭延城に重臣を配し最上氏と対峙.さらに,仙北地方にも進出し,六郷氏や本堂氏を配下とし,戸沢氏や秋田氏と対峙しました.

1581[天正9]年,鮭延城が氏家守棟が率いる最上軍の攻撃を受けます.小野寺輝道の跡を継いだ小野寺義道[1566-1646]の従兄弟であった鮭延城主・鮭延秀綱は猛攻に耐えるも後詰の援軍が派遣されず,結局は氏家守棟に降伏.1586[天正14]年,最上氏が上杉氏が支配する庄内地方に大攻勢をかけるという情報を得た小野寺義道は旧領を回復すべく動きます.騎馬1,000騎,足軽5,000人からなる小野寺軍が有屋峠近くの八口内に陣を敷きます.これに対して,最上義光は騎馬1,500余騎,足軽10,000余人の軍勢を率いて迎撃[有屋峠合戦].その途中,庄内の東禅寺右馬頭勝正から支援要請が来たため最上義光は子の義康を総大将として残し庄内へ転戦.有屋峠合戦は結局は勝敗が決せず小野寺義道も横手城に帰ります.この辺りから小野寺氏の勢力に陰りが見えてきます.

関ケ原合戦時には小野寺義道[1566-1646]は東軍に属したものの,途中で上杉景勝[1556-1623]に与し,東軍の最上氏・六郷氏と干戈を交えます.この結果,関ケ原合戦後に,小野寺義道は石見国[島根県]に配流となります.

その後は,1602[慶長7]年に佐竹氏が入封すると久保田城の支城として城代が置かれました.佐竹氏によって城は整備され,本丸は南北43間東西26間[78m×47m]の規模を誇りました.但し,佐竹氏の本拠地の久保田城と同じく天守閣は築かれず,本丸には本丸御殿と呼ばれる入母屋造りの建物が戊辰戦争まで建っていました.

posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.