横浜の大倉山,龍松院の裏山にあったと言われる城.
小机城の城代・笠原能登守義俊もしくは康勝の弟・笠原平六義為が1500[明応9]年に小机城の出城として築城したと伝わります.
大倉山公園の北側の丘陵部は大曾根町字殿谷と呼ばれる場所ですが,ここに城があったとされます.但し,太尾見晴らしの丘公園のそばにある「牢尻」という地名が大曾根城の楼[物見櫓]に由来するとも言われ,鶴見川を眼下に置く太尾見晴らしの丘公園に大曾根城があったという説もあります.
ともあれ,大曾根の地には田代冠者秀忠こと城田弥三郎が屋敷を構えていました.このため,笠原義為は築城に当たって城田一族を謀殺したと伝わります.
大曾根城の笠原氏は笠原義為の子・筑後広定,その子・広信と続きます.笠原広信は北条氏政により1581[天正9]年に笠原政晴[-1560/07/18]が守る戸倉城に動員され武田勝頼軍と戦い,一族の多くを失いました.なお,戸倉城主の笠原政晴[政尭]は北条家の宿老・松田憲秀の長男で,笠原越前守家の笠原信為・康勝親子とは縁戚関係にあったとされます.
1590[天正18]年に豊臣秀吉により小田原城が落城すると笠原広信は城を廃却し,富川与右衛門[Fukawa]として帰農しました.
2018/06/30訪問.
posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.