横浜の師岡の獅子ヶ谷殿山にある城で御薗城とも呼ばれます.御薗城というのは,古くは御薗氏が居を構えていたという伝承に由来します.
獅子ヶ谷城[Shishigaya]の縄張りは小机城の支城群である金子城[篠原城],榎下城,茅ヶ崎城と比較すると簡便なものに留まっています.つまり,後北条氏時代の城とは考えにくいということになります.
鎌倉時代,麓の師岡保は秩父重隆の子・葛貫[秩父]能隆の三男の師岡重経[重保]が本拠地としていました.獅子ヶ谷城は師岡氏が築いたとも考えられています.
師岡重経は兄の河越重頼とともに保元の乱[1156]で源義朝に与します.その後,平家政権の下で過しますが,1180[治承4]年に源義朝の遺児・源頼朝が挙兵すると馳せ参じます.ところが,源義経とともに後白河法皇から任官を受けたために源頼朝の勘気を蒙り,本領を失います.
師岡氏の後に,鎌倉御家人の武藤頼平が師岡郷を本拠地とします.獅子ヶ谷城は,あるいは,武藤氏が築城したのかもしれません.武藤頼平の猶子・資頼の子孫は少弐氏となり,子の氏平の子孫は出羽の大宝寺氏となっています.そう考えると,獅子ヶ谷城は戦国大名の揺籃の地と言うことも出来るでしょう.
2018/06/30訪問
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