金曜日, 10月 04, 2002
第二回秩父札所巡り
晴れ。
2回目の札所巡りに出る。
所沢、入間、そして飯能を抜けて秩父に至る。今回も、秩父の玄関口の西武秩父駅を起点に巡ることにしていた。
この秩父の札所は今年が午年の総開帳に当たっているからなのか、あるいは古くから巡礼者の便宜を図ってのことなのか、道しるべが随所にある。これは、秩父に全く土地鑑のないものにとっては非常に有りがたい。
一応は前回に駅前で入手した地図を片手にしてはいる。しかし、その地図とて細部にわたって正確に道が書き込まれているわけではない。案内図の性格からして、そういうことはないのだ。それに加えて、私の頭の中の方位磁針の補正すべきもない生来からの若干の歪みと、訓練を積めば何がしかの向上は期待出来るかもしれない地図の読取能力。これらの複合誤差によって整然とした巡礼道は迷宮と化す。
その迷宮を再び巡礼道へと誘ってくれるのが、程よい間隔で目に飛び込んでくる控えめな標識なのだ。この気にしなければ、全く気にならない標識がなければ、私などはおそらく1日にたったの3箇所いや場合によっては2箇所ほどの札所に参拝するだけで力と時間を使い切ってしまうかもしれない。
ともかくも、この標識によって前回も今回も非常に助けられた。
この標識、車道に掲げられた自動車用の大きなものもあれば、民家の脇にひっそりと掲げられている小さいものもある。ここぞという時に助力してくれるのは、どちらかというと後者の小さい標識のほう。これらは、いづれも現代のもの。
それらがないような、というのか設置することが難しいような畠などのようなところにあるのが江戸時代からの道しるべ。この道しるべは、丸い石で出来ていて、地面に立っている。大きさも大きいものではない。当然、普通に歩いているならば視線の高さにはないわけで、目立たない。民家の脇の標識よりもさらに目立たないのである。
それでも、これは立派に役に立っている。それどころか、この古い時代の巡礼の道案内に一度気付くと、どういうわけか次々と見つけたくなる。そして、これもどういうわけか、次々とその案内石は視界に入ってくるのだ。あそこにも、ほらそっちにもという具合に。繰り返しになるが、この案内石は目立たない。赤や青に色づけられているわけでも、由来書が詳細に記されているわけでもない。腰を屈めてじっと見つめたところで、小さな石に、あっちだこっちだと刻まれているだけである。
それでも、なにやら惹き付けられるものを感ぜずにはいられなかった。
2回目の札所巡りに出る。
所沢、入間、そして飯能を抜けて秩父に至る。今回も、秩父の玄関口の西武秩父駅を起点に巡ることにしていた。
この秩父の札所は今年が午年の総開帳に当たっているからなのか、あるいは古くから巡礼者の便宜を図ってのことなのか、道しるべが随所にある。これは、秩父に全く土地鑑のないものにとっては非常に有りがたい。
一応は前回に駅前で入手した地図を片手にしてはいる。しかし、その地図とて細部にわたって正確に道が書き込まれているわけではない。案内図の性格からして、そういうことはないのだ。それに加えて、私の頭の中の方位磁針の補正すべきもない生来からの若干の歪みと、訓練を積めば何がしかの向上は期待出来るかもしれない地図の読取能力。これらの複合誤差によって整然とした巡礼道は迷宮と化す。
その迷宮を再び巡礼道へと誘ってくれるのが、程よい間隔で目に飛び込んでくる控えめな標識なのだ。この気にしなければ、全く気にならない標識がなければ、私などはおそらく1日にたったの3箇所いや場合によっては2箇所ほどの札所に参拝するだけで力と時間を使い切ってしまうかもしれない。
ともかくも、この標識によって前回も今回も非常に助けられた。
この標識、車道に掲げられた自動車用の大きなものもあれば、民家の脇にひっそりと掲げられている小さいものもある。ここぞという時に助力してくれるのは、どちらかというと後者の小さい標識のほう。これらは、いづれも現代のもの。
それらがないような、というのか設置することが難しいような畠などのようなところにあるのが江戸時代からの道しるべ。この道しるべは、丸い石で出来ていて、地面に立っている。大きさも大きいものではない。当然、普通に歩いているならば視線の高さにはないわけで、目立たない。民家の脇の標識よりもさらに目立たないのである。
それでも、これは立派に役に立っている。それどころか、この古い時代の巡礼の道案内に一度気付くと、どういうわけか次々と見つけたくなる。そして、これもどういうわけか、次々とその案内石は視界に入ってくるのだ。あそこにも、ほらそっちにもという具合に。繰り返しになるが、この案内石は目立たない。赤や青に色づけられているわけでも、由来書が詳細に記されているわけでもない。腰を屈めてじっと見つめたところで、小さな石に、あっちだこっちだと刻まれているだけである。
それでも、なにやら惹き付けられるものを感ぜずにはいられなかった。