土曜日, 11月 16, 2002
紅葉を楽しむ
京都駅からJR奈良線に乗って、5分程度で東福寺駅に着く。市バスを利用して東福寺に行く方法もあるけれども、簡単に行くことが出来るという点ではJRがお勧め。JRの東福寺駅は京阪の東福寺駅とプラットホームが隣接している。一度、JR東福寺駅の改札を東福寺側に抜けて、京阪の東福寺駅を経由して京阪の改札を抜けてはじめて東福寺への道に出る。JRの改札を抜けたところで切符を出してしまってはいけない。
行った時は、丁度、紅葉の真っ盛り。駅から東福寺までは10分程度だけれども、当日は人が途切れることなく続いていた。
駅前から東福寺へと至る道は以外に狭く、車が通ると思いっきり端に寄らなければならない。そうこうして、いくつかの塔頭寺院を見て、臥雲橋に至る。ここに来ると、人だかりが凄い。中々前に進むのが大変なくらいだ。それも、その筈で、ここから眺める通天橋は素晴らしい。真っ赤なのだ。通天橋からの眺めも言うまでもなく絶景だけれども、最初に見る、つまりは第一印象という意味で、ここからの通天橋の眺めは誠に絶景だと言える。
滝口寺(旧往生院三宝寺)
檀林寺の前を通り過ぎて、道を登ると祇王寺がある。ここは嵯峨野の紅葉の名所の一つである。祇王寺で大覚寺との拝観共通券を購入して、祇王寺を堪能する前に、そのすぐ横というのか脇にある滝口寺を先に訪れる。
滝口寺を訪れる目的は、かの滝口入道の悲恋悲話に思いを馳せることにあるのではない。もちろん、滝口寺といえば、滝口入道のエピソードをもとにして、明治維新後に廃寺となっていた往生院三宝寺を祇王寺とともに復興の上、歌人佐々木信網が高山樗牛の歴史小説「滝口入道」に因んで命名した寺としてつとに知られている。
さて、それでは、何を目的として、滝口寺に足を踏み入れたのか。他でもない、この滝口寺にある鎌倉幕府倒幕の重要な立役者、新田義貞の首塚に詣でるためだ。
新田義貞は、言うまでもなく鎌倉時代の関東の武将。元弘の乱に際して、鎌倉幕府軍の一翼を担い出陣するも、本貫の地である新田庄における北条被官による横暴を契機として、鎌倉幕府に反旗を翻し新田庄から鎌倉街道を一気に南下して鎌倉の地に侵攻し、北条一族を族滅させた(正慶2[1333]年)。
建武の新政で左兵衛督に任ぜられるも、同じく源氏の足利尊氏と対立し、一時は尊氏を九州に駆逐する。しかし、九州勢を加えた足利軍に「湊川の戦い」で敗れる。再起を図り、恒良親王・尊良親王を奉じて越前金崎城で足利軍と激闘を繰り広げるも敗戦。翌年、藤島で戦死し、三条河原で晒し首となった。
その新田義貞の首は勾当内侍によって往生院三宝寺に埋葬された。寺の入り口を入って直ぐ左に、重臣達を伴う塔が立つ。この塔を見るとき、北条一族が揃って腹を切った東勝寺跡の塔を思わずにはいられない。いづれも、兵達が夢のあとなのか。それにしても、北条を打ち破った新田義貞の世の如何に短かったことか。
さて、この寺は、その鎌倉幕府が樹立される以前に、小松内大臣重盛が家臣斎藤滝口時頼が花見の席で建礼門院の女官横笛を見初め、恋に落ちるが父親の反対に合い、出家を遂げることで横笛への思いを断ち切ろうとした物語の舞台。滝口時頼の出家を知った横笛もまた滝口時頼を慕って滝口寺に赴くも、滝口入道は未練を断ち切るために横笛に会うことを拒む。その後、滝口入道は募る一方の横笛への思いを忘れようとして嵯峨野の地を離れ、遠く高野山に登る。横笛も滝口入道の後を追い法華寺で出家し、それを知った入道が
「そるまでは恨みしかとも梓弓 まことの道に入るぞ嬉しき」
との歌を、横笛が
「そるとても何か恨みむ梓弓 引きとどむべき心ならねば」
との歌を返したというエピソードが伝えられる。横笛はそのすぐ後に募る思いを胸にこの世を去り、滝口入道はその思いと自らの思いを胸に秘めてさらなる修行に打ち込んだという。野ノ宮神社
嵐山から少し歩いた嵯峨野の入り口に位置する。源氏物語所縁の神社として知られており、ここが嵯峨野巡りの小旅行の出発点。
ここへは何度も足を運んでいる。何度赴いても雰囲気が良い。良く時代劇やサスペンス物に出てくる竹林はこのすぐそば。
この神社は伊勢神宮の斉宮の皇女が伊勢に行く前に潔斎をしたところであり、ために祭神は天照大神となっている。
もともとは、潔斎を行う野宮は帝の即位毎に定められていたと言われる。その慣習も平安時代の初期には廃れ、位置が固定されるようになり、そして社が建立されるようになる。その社が野ノ宮神社ということになる。そう言われてみると、辺り一面に、それまでの嵐山の喧騒を離れた荘厳な雰囲気が漂っている。神を感じるというべきだろうか。社が現在のものよりも大きければそうした意識を持つことはなかっただろう。神々しい雰囲気を醸し出すには程よい大きさということだろうか。
嵯峨天皇皇女仁子内親王の代から、この地が使用されるようになったとされるも、室町の南北朝の兵乱によって、そもそもの斎宮制度が途絶え社のみが残された。社のみとなっても、しばらくは後奈良天皇、中御門天皇などから大覚寺宮に綸旨が出されたように皇室の保護を受けていたという。
黒木鳥居と小柴垣に代表される現代の聖地は昔からの聖地であり、物語の上での聖地でもあったことは源氏物語「賢木の巻」における描写で伺える。そのためであろうか、この神社には多くの若い女性が詣でている。
小倉山常寂光寺
野ノ宮社を後にし山陰本線の線路を越えると例の竹林がある。この辺りでは観光用の人力車に出くわすことがしばしば。乗っているお客が着物姿などだと雰囲気は一気に絵巻物の世界となる。
如何にも郊外らしい畑の横を通り落柿舎を畑の向こうに見ながら進むと常寂光寺が妖しく誘う。紅葉の季節には眩いばかり。
入り口の門から仁王門に至る道はさながら紅葉のアーチと化す。全体としてこじんまりとした趣をなしているが、これがまた風情を増すのに一役買っている。
常寂光という名は、豊臣秀吉の東山大仏の開眼千僧供養への出仕を拒否した日禎が隠居の地として定め、小倉山にあるこの地が常寂光土の感ありとしたことによるとされている。
二尊院
異論があることを承知の上でいうと、二尊院の紅葉が一番綺麗なのではないだろうか。といって、他の紅葉がどうということではない。色づき具合が一番素晴らしいという訳ではない。極めて主観的なのだけれども、初めて嵯峨野の地に足を踏み入れたときに見事に色づいていたのが二尊院だった。これは、あくまでも偶然の出来事。周囲の紅葉は既に時期を過ぎていて地面に絨毯を拵えていたのだが、二尊院だけは赤かった。そういう事情での一番ということになる。
強(あなが)ち、主観的な思い込みも外れてはいないと見えて、山門から続く道は「紅葉の馬場」と呼ばれ名勝として知られている。そう馬場なのである。
この寺は三条実美や俳優の阪東妻三郎の墓があるということでも知られている。
蛇足になるが、少し時期を外して来ると、この寺の本当の良さを味わえる。
檀林寺
檀林皇后と呼ばれた、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(786-850)所縁(ゆかり)の寺。
建立の当時は坊が12もあったというから、かなり大きな寺院だったということになる。
今では、その面影を境内から知るということは出来ない。
現在の檀林寺は昭和39年に再建されたものというけれども、それでも猶(なお)荘厳であるのは、かつての名残のためと思うのは考えすぎだろうか。
祇王寺
檀林寺の前の道を真っ直ぐに進むと何とも言えない空気に包まれた空間が広がっている。滝口寺とともに良鎮(法然弟子)ゆかりの往生院の址に再興された祇王寺のある場所だ。 祇王寺の名で分かるように、平清盛の寵愛を受けていた白拍子の祇王が寵愛が仏御前に移ると、ここに母と妹とともに庵を結んだと言われる。その仏御前もやがて清盛から離れ祇王に導かれて仏門に入ったという。平家を日本一の家柄とし繁栄を築いた清盛はこの世を去り、続いて平家一門も滅ぶと共に清盛の供養をして一生を過ごしたとされる。
五台山清涼寺(嵯峨釈迦堂)
京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町にある浄土宗の寺。「しょうりょうじ」と読む。山号は五台山、通称は嵯峨釈迦堂。
もともとは、中国の五台山に見立てた愛宕山麓にある棲霞寺内における釈迦堂として建立されるが、信仰を集めて棲霞寺との主従の関係が逆になって現在に至っている。
この近くに大覚寺があるが、大覚寺と釈迦堂は16、7世紀以降に釈迦堂が「本願」系(浄土宗系)の管理するところとなったために、明治維新後には真言宗の流れを汲む傘下の子院が大覚寺に合併されたという関係を持っている。
天竜寺
嵯峨野も外れにある辺り、ここはもう嵐山という所に天竜寺はある。京福嵐山線の嵐山駅の直ぐ前にあるから、嵯峨野・嵐山観光の出発点といっていいだろう。
しかし、今回は京福を利用せず、阪急で桂まで下がって嵐山に出向いた。理由は簡単。京福の嵐山駅に降り立つと、天竜寺を拝観してからわざわざ渡月橋を渡ることになる。嵯峨野の散策をゆるりと楽しみたいと考えていたので、再び渡月橋を引き返してくるよりはと考えた次第。
この天竜寺、貞和元(1345)年に創建された古刹で、南禅寺、建仁寺、東福寺、万寿寺と並んで室町幕府から京都五山の地位を与えられた由緒ある寺として知られている。後に、京都五山に相国寺が加えられて、南禅寺が別格とされると天竜寺は京都五山の第一位とされる。つまりは、それだけ室町幕府から手厚く処遇されたということを示している。
しかし、不思議なことに、この天竜寺はその室町幕府と対立した後醍醐帝の流れである南朝大覚寺統と非常に所縁のある寺でもある。
そう、この寺は室町幕府の創設者である足利高氏が建武の新政の主導者である後醍醐帝を供養するために建立したのだ。足利高氏と後醍醐帝は対立するに至ったが、初めは鎌倉幕府倒幕のために力を合わせた仲。そもそも、源氏の血を引き、また、鎌倉幕府を支配する北条家とも深い繋がりのある足利高氏が鎌倉に弓引く決心をしたのは、後醍醐帝の力によると言っても過言ではない。とはいえ、悲しいかな、高氏は諸国の武家の期待を一身に集める武家の棟梁たる源氏、拠って立つ基盤は鎌倉以来の武家による統治。一方の後醍醐帝は、王政復古を理想とする。心寄せ合いつつも、やがてあい争うようになるのは必定だった。
このような背景の下で、後醍醐帝亡き後、高氏に後醍醐帝の供養を勧めたのが夢窓疎石。鎌倉の北条貞時を始め、室町幕府からも南朝側からも慕われた臨済宗の立役者である。彼は、天竜寺建立を勧めたが、その費用はいわゆる天竜寺船による元との貿易によって賄われた。そして、大覚寺統亀山離宮跡に完成したのが天竜寺なのだ。
このようなゆわれを持つ天竜寺には、後醍醐帝御菩提塚、嵯峨天皇陵、亀山天皇陵がある。
残念ながら、天竜寺は応仁の乱で全焼の憂き目に遭ったほか、ずっと下って幕末には長州藩の本陣が置かれたために、薩摩藩の攻撃により破壊されてしまった。しかし、その後の復興によって現在の姿を伝えている。
行った時は、丁度、紅葉の真っ盛り。駅から東福寺までは10分程度だけれども、当日は人が途切れることなく続いていた。
駅前から東福寺へと至る道は以外に狭く、車が通ると思いっきり端に寄らなければならない。そうこうして、いくつかの塔頭寺院を見て、臥雲橋に至る。ここに来ると、人だかりが凄い。中々前に進むのが大変なくらいだ。それも、その筈で、ここから眺める通天橋は素晴らしい。真っ赤なのだ。通天橋からの眺めも言うまでもなく絶景だけれども、最初に見る、つまりは第一印象という意味で、ここからの通天橋の眺めは誠に絶景だと言える。
滝口寺(旧往生院三宝寺)
檀林寺の前を通り過ぎて、道を登ると祇王寺がある。ここは嵯峨野の紅葉の名所の一つである。祇王寺で大覚寺との拝観共通券を購入して、祇王寺を堪能する前に、そのすぐ横というのか脇にある滝口寺を先に訪れる。
滝口寺を訪れる目的は、かの滝口入道の悲恋悲話に思いを馳せることにあるのではない。もちろん、滝口寺といえば、滝口入道のエピソードをもとにして、明治維新後に廃寺となっていた往生院三宝寺を祇王寺とともに復興の上、歌人佐々木信網が高山樗牛の歴史小説「滝口入道」に因んで命名した寺としてつとに知られている。
さて、それでは、何を目的として、滝口寺に足を踏み入れたのか。他でもない、この滝口寺にある鎌倉幕府倒幕の重要な立役者、新田義貞の首塚に詣でるためだ。
新田義貞は、言うまでもなく鎌倉時代の関東の武将。元弘の乱に際して、鎌倉幕府軍の一翼を担い出陣するも、本貫の地である新田庄における北条被官による横暴を契機として、鎌倉幕府に反旗を翻し新田庄から鎌倉街道を一気に南下して鎌倉の地に侵攻し、北条一族を族滅させた(正慶2[1333]年)。
建武の新政で左兵衛督に任ぜられるも、同じく源氏の足利尊氏と対立し、一時は尊氏を九州に駆逐する。しかし、九州勢を加えた足利軍に「湊川の戦い」で敗れる。再起を図り、恒良親王・尊良親王を奉じて越前金崎城で足利軍と激闘を繰り広げるも敗戦。翌年、藤島で戦死し、三条河原で晒し首となった。
その新田義貞の首は勾当内侍によって往生院三宝寺に埋葬された。寺の入り口を入って直ぐ左に、重臣達を伴う塔が立つ。この塔を見るとき、北条一族が揃って腹を切った東勝寺跡の塔を思わずにはいられない。いづれも、兵達が夢のあとなのか。それにしても、北条を打ち破った新田義貞の世の如何に短かったことか。
さて、この寺は、その鎌倉幕府が樹立される以前に、小松内大臣重盛が家臣斎藤滝口時頼が花見の席で建礼門院の女官横笛を見初め、恋に落ちるが父親の反対に合い、出家を遂げることで横笛への思いを断ち切ろうとした物語の舞台。滝口時頼の出家を知った横笛もまた滝口時頼を慕って滝口寺に赴くも、滝口入道は未練を断ち切るために横笛に会うことを拒む。その後、滝口入道は募る一方の横笛への思いを忘れようとして嵯峨野の地を離れ、遠く高野山に登る。横笛も滝口入道の後を追い法華寺で出家し、それを知った入道が
「そるまでは恨みしかとも梓弓 まことの道に入るぞ嬉しき」
との歌を、横笛が
「そるとても何か恨みむ梓弓 引きとどむべき心ならねば」
との歌を返したというエピソードが伝えられる。横笛はそのすぐ後に募る思いを胸にこの世を去り、滝口入道はその思いと自らの思いを胸に秘めてさらなる修行に打ち込んだという。野ノ宮神社
嵐山から少し歩いた嵯峨野の入り口に位置する。源氏物語所縁の神社として知られており、ここが嵯峨野巡りの小旅行の出発点。
ここへは何度も足を運んでいる。何度赴いても雰囲気が良い。良く時代劇やサスペンス物に出てくる竹林はこのすぐそば。
この神社は伊勢神宮の斉宮の皇女が伊勢に行く前に潔斎をしたところであり、ために祭神は天照大神となっている。
もともとは、潔斎を行う野宮は帝の即位毎に定められていたと言われる。その慣習も平安時代の初期には廃れ、位置が固定されるようになり、そして社が建立されるようになる。その社が野ノ宮神社ということになる。そう言われてみると、辺り一面に、それまでの嵐山の喧騒を離れた荘厳な雰囲気が漂っている。神を感じるというべきだろうか。社が現在のものよりも大きければそうした意識を持つことはなかっただろう。神々しい雰囲気を醸し出すには程よい大きさということだろうか。
嵯峨天皇皇女仁子内親王の代から、この地が使用されるようになったとされるも、室町の南北朝の兵乱によって、そもそもの斎宮制度が途絶え社のみが残された。社のみとなっても、しばらくは後奈良天皇、中御門天皇などから大覚寺宮に綸旨が出されたように皇室の保護を受けていたという。
黒木鳥居と小柴垣に代表される現代の聖地は昔からの聖地であり、物語の上での聖地でもあったことは源氏物語「賢木の巻」における描写で伺える。そのためであろうか、この神社には多くの若い女性が詣でている。
小倉山常寂光寺
野ノ宮社を後にし山陰本線の線路を越えると例の竹林がある。この辺りでは観光用の人力車に出くわすことがしばしば。乗っているお客が着物姿などだと雰囲気は一気に絵巻物の世界となる。
如何にも郊外らしい畑の横を通り落柿舎を畑の向こうに見ながら進むと常寂光寺が妖しく誘う。紅葉の季節には眩いばかり。
入り口の門から仁王門に至る道はさながら紅葉のアーチと化す。全体としてこじんまりとした趣をなしているが、これがまた風情を増すのに一役買っている。
常寂光という名は、豊臣秀吉の東山大仏の開眼千僧供養への出仕を拒否した日禎が隠居の地として定め、小倉山にあるこの地が常寂光土の感ありとしたことによるとされている。
二尊院
異論があることを承知の上でいうと、二尊院の紅葉が一番綺麗なのではないだろうか。といって、他の紅葉がどうということではない。色づき具合が一番素晴らしいという訳ではない。極めて主観的なのだけれども、初めて嵯峨野の地に足を踏み入れたときに見事に色づいていたのが二尊院だった。これは、あくまでも偶然の出来事。周囲の紅葉は既に時期を過ぎていて地面に絨毯を拵えていたのだが、二尊院だけは赤かった。そういう事情での一番ということになる。
強(あなが)ち、主観的な思い込みも外れてはいないと見えて、山門から続く道は「紅葉の馬場」と呼ばれ名勝として知られている。そう馬場なのである。
この寺は三条実美や俳優の阪東妻三郎の墓があるということでも知られている。
蛇足になるが、少し時期を外して来ると、この寺の本当の良さを味わえる。
檀林寺
檀林皇后と呼ばれた、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(786-850)所縁(ゆかり)の寺。
建立の当時は坊が12もあったというから、かなり大きな寺院だったということになる。
今では、その面影を境内から知るということは出来ない。
現在の檀林寺は昭和39年に再建されたものというけれども、それでも猶(なお)荘厳であるのは、かつての名残のためと思うのは考えすぎだろうか。
祇王寺
檀林寺の前の道を真っ直ぐに進むと何とも言えない空気に包まれた空間が広がっている。滝口寺とともに良鎮(法然弟子)ゆかりの往生院の址に再興された祇王寺のある場所だ。 祇王寺の名で分かるように、平清盛の寵愛を受けていた白拍子の祇王が寵愛が仏御前に移ると、ここに母と妹とともに庵を結んだと言われる。その仏御前もやがて清盛から離れ祇王に導かれて仏門に入ったという。平家を日本一の家柄とし繁栄を築いた清盛はこの世を去り、続いて平家一門も滅ぶと共に清盛の供養をして一生を過ごしたとされる。
五台山清涼寺(嵯峨釈迦堂)
京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町にある浄土宗の寺。「しょうりょうじ」と読む。山号は五台山、通称は嵯峨釈迦堂。
もともとは、中国の五台山に見立てた愛宕山麓にある棲霞寺内における釈迦堂として建立されるが、信仰を集めて棲霞寺との主従の関係が逆になって現在に至っている。
この近くに大覚寺があるが、大覚寺と釈迦堂は16、7世紀以降に釈迦堂が「本願」系(浄土宗系)の管理するところとなったために、明治維新後には真言宗の流れを汲む傘下の子院が大覚寺に合併されたという関係を持っている。
天竜寺
嵯峨野も外れにある辺り、ここはもう嵐山という所に天竜寺はある。京福嵐山線の嵐山駅の直ぐ前にあるから、嵯峨野・嵐山観光の出発点といっていいだろう。
しかし、今回は京福を利用せず、阪急で桂まで下がって嵐山に出向いた。理由は簡単。京福の嵐山駅に降り立つと、天竜寺を拝観してからわざわざ渡月橋を渡ることになる。嵯峨野の散策をゆるりと楽しみたいと考えていたので、再び渡月橋を引き返してくるよりはと考えた次第。
この天竜寺、貞和元(1345)年に創建された古刹で、南禅寺、建仁寺、東福寺、万寿寺と並んで室町幕府から京都五山の地位を与えられた由緒ある寺として知られている。後に、京都五山に相国寺が加えられて、南禅寺が別格とされると天竜寺は京都五山の第一位とされる。つまりは、それだけ室町幕府から手厚く処遇されたということを示している。
しかし、不思議なことに、この天竜寺はその室町幕府と対立した後醍醐帝の流れである南朝大覚寺統と非常に所縁のある寺でもある。
そう、この寺は室町幕府の創設者である足利高氏が建武の新政の主導者である後醍醐帝を供養するために建立したのだ。足利高氏と後醍醐帝は対立するに至ったが、初めは鎌倉幕府倒幕のために力を合わせた仲。そもそも、源氏の血を引き、また、鎌倉幕府を支配する北条家とも深い繋がりのある足利高氏が鎌倉に弓引く決心をしたのは、後醍醐帝の力によると言っても過言ではない。とはいえ、悲しいかな、高氏は諸国の武家の期待を一身に集める武家の棟梁たる源氏、拠って立つ基盤は鎌倉以来の武家による統治。一方の後醍醐帝は、王政復古を理想とする。心寄せ合いつつも、やがてあい争うようになるのは必定だった。
このような背景の下で、後醍醐帝亡き後、高氏に後醍醐帝の供養を勧めたのが夢窓疎石。鎌倉の北条貞時を始め、室町幕府からも南朝側からも慕われた臨済宗の立役者である。彼は、天竜寺建立を勧めたが、その費用はいわゆる天竜寺船による元との貿易によって賄われた。そして、大覚寺統亀山離宮跡に完成したのが天竜寺なのだ。
このようなゆわれを持つ天竜寺には、後醍醐帝御菩提塚、嵯峨天皇陵、亀山天皇陵がある。
残念ながら、天竜寺は応仁の乱で全焼の憂き目に遭ったほか、ずっと下って幕末には長州藩の本陣が置かれたために、薩摩藩の攻撃により破壊されてしまった。しかし、その後の復興によって現在の姿を伝えている。