金曜日, 3月 07, 2003

花灯路を楽しむ 

朝6時の「のぞみ」で京都。
目当ては、今日から始まる東山の「花灯路」と清水寺のご開帳。
一旦改札を出て、京都駅でコーヒーを飲む。これは、もう半ばワン・パターン化している。
午前中は、JR山陰本線の花園駅で降りて妙心寺へと向う。花園の駅までの間で親子連れと隣り合わせとなる。男の子はどうやら耳が多少不自由のようで補聴器を母親に付けてもらっていた。しかし、ゲームに興じている様は、そういうハンデを感じさせない。
駅の外は雨。今日は午前中は雨という天気予報。そのために、当初は鞍馬の温泉で寛(くつろ)ぐつもりであったところの予定を変更したのだ。
雨の京都よというのは実は初めて。
駅から妙心寺はそれほど離れていない。駅前の通りを歩いて少し行くとガソリン・スタンドが見えてくる。そこで道を渡ると参道になっている。
妙心寺は「瓢鮎図」で有名だけれども、本物は博物館に保管されている。ともあれ、春の特別公開を行っているということで、鐘や龍、そして庭園、それに光秀所縁の明智風呂などを見学。
次いで、再び花園駅前を通って今度は反対側に太秦の広隆寺を目指す。線路の下を潜って、小さな川を渡って進む。元来、道に迷い易い性質なので、常時、地図を携帯している。携帯しているとはいっても迷うことがある。そもそも、簡単な地図は分かりやすいのだけれども、重要ではない道が省略されていたりするもの。重要ではない道が現場では重要な道と同じくらいの道幅でしかも同じ方向でY字路になっていたりすると、どうもいけない。地元のおじさんに道を聞く。
途中、小さな社のある交差点を曲がって京福線の太秦の駅前へ。ここは、もう広隆寺の門の前に当たる。丁度というべきか、確信犯的にというべきか、計画通りというべきかお昼と相成ったため、広隆寺の国宝群を拝する前に「ひし伊」で食事。ミニ会席あさぎ、3,000円也。
広隆寺の国宝群の素晴らしさは、また別稿で触れるので、略。

太秦の駅。この日、写真の親子と門前ですれ違う。門前ではテレビの撮影もしていた。


京福電鉄の太秦の駅から帷子の辻で乗り換えて御室に移動。帷子の辻は檀林皇后に因む地名。嵯峨野の近辺にも同様の地名があったというが、現在残っているのは、この帷子の辻だけという。と書いたけれども、堪能する間もなし。乗換の電車が反対ホームに着いていたために階段を走る。
次の目当ては御室仁和寺。この寺に関しても別に改めて述べるので詳細は譲る。
駅を降りると直ぐ前に大きな三門が迫る。この山門を潜ると、向って左に庭園などへの拝観入り口がある。中に進むと、絵葉書で御馴染みの庭と五重塔のコントラストが目に飛び込んでくる。
次に目指すは、庭園で知られる竜安寺。京福で竜安寺道という手もあるが、歩いたとしても左程の距離ではないので歩く。途中に大きな屋敷がある。こうした屋敷も、また数百年の歴史を経ると文化財として光を放つのか。関係のないことをいろいろと妄想する。
莫妄想、である。
竜安寺の庭は素晴らしい。何を陳腐なと言われるかもしれない。さりとて、思わず横になってみたり、立ち上がったりして観賞する。この庭は記憶が正しければ中学の時に目にしている。
竜安寺の側には立命館大学がある。K氏が教鞭を執る学校だ。その近くに足利将軍家所縁の等持院がある。地図を片手に歩くも、少し道に迷う。竜安寺の目の前に妙心寺を指す案内板はあるものの、等持院関係はない。地図を信じてそれらしき方角へ歩を進める。
住宅街に入る。こうなって、案内板がないと不安なもの。しかも、道が別れている。考え込んでいると、助け舟を出される。いつも思うのだが、京都の方々は非常に親切。
おばさんに教えられた通りに歩いて等持院に着く。手前で新幹線の形をした幼稚園の送迎バスとすれ違う。バスはきっと人気者に違いない。
大覚寺、竜安寺と等持院、外観が良く似ている。当たり前と言えば当たり前ではある。
歴代の室町将軍の像を拝んで午後の予定を終える。

等持院に安置される足利義満公の木像


京福の等持院駅に着いたところで丁度電車が来る。ほとんど同時で遮断機を跨(また)ぐようにしてホームへ駆け込む。東西線経由で京都駅に戻り、預けておいた荷物を持って二条城の定宿へ。
夜、京都駅の萬重で食事。以前、来たときに昼食をとったところ。本店だと少し高めであるけれども、駅のほうは庶民的な値段。味も変わらない。京の味を胃袋に流し込んだ後、五条坂下に行く特別バスで清水寺に向う。
今日からの「花灯路」に合わせて要所要所で停まるバスを走らせているところは非常に便利。バスはすぐ来るし、五条坂下まで停まらないので早く着いた。ここから、何やらいつもの五条坂とは違う雰囲気。真っ暗で路が良く分からなくなるところであるのだけれども、警備員の方々が辻々に立っていて誘導してくれる。こちらは、何も考えずに坂を登る。参道の店が多くなる駐車場の辺りから路の脇に「花灯路」が出現する。何とも幻想的な雰囲気がある。

しかし、本当に幻想的だったのは、これから先の清水寺。奥之院の特別開帳。ご本尊と結縁する前に胎内巡りを体験する。長野の善光寺のそれとは異なり、本当に真っ暗。
数珠を伝って巡るのであるけれども、何も見えない。加えて、順路は円を描いているのではなく単純ならざる形をしているのだ。前の人すら見えない中で、胎内を巡る。地を歩いているのではなく、宙を浮遊しているかの如き感覚になる。
帰りは二年坂を下る。「山椒ちりめん」と「きんつば」を買い、「いもきんつば」を齧(かじ)りながら円山公園を抜けて、タクシーにて二条城へ。

妙心寺門前にて

駅から妙心寺はそれほど離れていない。駅前の通りを歩いて少し行くとガソリン・スタンドが見えてくる。そこで道を渡ると参道になっている。
当日は生憎の雨。京都に来て雨に降られるというのは今回が初めて。
それでも、花園の駅から妙心寺までの距離は僅かなものだから雨は苦にならない。そもそも、花園という名前そのものが妙心寺を表していると言ってもいいだろう。妙心寺、正式には臨済宗妙心寺派大本山正法山妙心寺の起源は花園帝(1297-1348)が、衣笠山の南に離宮を営んだことに始まる。帝は禅宗に帰依され、大徳寺開山大燈国師に教えを乞う。そして、帝は、この大燈国師の後に教えを乞う師がいなくなるのを心配したために、大燈国師が自らの法嗣である開山慧玄を推挙し、開山慧玄を以って離宮を寺院に変えたという。但し、この開山慧玄は自らを民衆の中に置く放浪の求道者でもあったために、美濃国伊深から京に招くのに三顧の礼を尽くしたとも言われている。
その開山慧玄亡き後は、南朝の藤原藤房こと第二世授翁宗弼、第三世無因宗因、第四世日峰宗舜、第五世義天玄承と受け継がれ、第六世雪江宗深の代に景川、悟渓、特芳、東陽の四傑から龍泉、東海、靈雲、聖澤の四派を生んだ。
この妙心寺は花園大学などの教育機関を擁していることでも知られている。しかし、驚くべきは、本山の中に子院塔頭が40を越えるということと、全国の3,500ヵ寺を越える寺院を抱えているということ。この数は最盛期よりは減っているらしいが、それでも物凄い数である。
ここは、また、数多くの文化財が犇(ひしめ)いている。
写真は、下立売通に面している南総門。

ライトアップされる清水寺三重塔




丁度、この日(3月7日)から清水寺奥之院御本尊御開帳。
寛永の再建から370年を記念して、鎌倉初期慶派作の本尊秘仏三面千手観世音菩薩坐像が243年ぶりに公開されるのを始めとして、と脇侍の秘仏地蔵菩薩立像(平安末期)、秘仏毘沙門天立像(鎌倉末期)も公開される。
この日は、随求堂の真下、随求菩薩の胎内を大数珠を手繰って巡る胎内巡りも体験。

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