月曜日, 2月 16, 2004

鑑真和上 

「鑑真和上坐像というと脱活乾漆造の奈良時代の作で、日本の肖像彫刻の最古の作品とされるわね。
ただの坐像ではなくて、恐らくは鑑真和上自身の背丈と同じ寸法で製作されたのではないかと考えられている」
「像の高さが奈良時代の他の像と比較すると小さいんじゃないかっていうのが、その根拠になっているんだよね。
そのことを念頭に置いて、改めて見てみると、左右の目違いなどが際立ってくるように思えるね。鑑真和上をそのまま写し取ったような像に見えてくる」
「そうなのよ。それも多くの人が指摘していて、きっと、この坐像は鑑真が亡くなられた後に製作されたものではなくて、鑑真が生きているときに、しかも鑑真その人を目の前にして製作されたものに違いないと。
具体的な製作年代については『東征伝』に忍基が和上遷下の予知夢を見て模したという記述がある天平宝字7(763)年だと考えられている」
「像から伝わってくるオーラのようなものは、それこそ鑑真を目の前にして製作したが故に鑑真のパワーが坐像に写しこまれたのかもしれないな。
それに、像が製作された時には既に鑑真和上の命の灯火は消えようとしていただろうし。消えるというのは適切ではないか。菩薩界に入ろうとしていたというべきかな」
「鑑真というと11度目の航海でようやく日本の土を踏んだ人。尋常な意志の持ち主ではないわね。その像からですらオーラが出ているように感じるのは当然かもしれないわよ。鑑真は東大寺の大仏開眼の翌年、まぁ、日本が仏教を切望してしていた最中だと言っても良いわね、その時、天平勝宝5(753)に日本に渡ってきた。その時既になんと67歳」
「67歳にして、その気力というのに圧倒される。そして、東大寺に居を許されると同時に戒壇建立と授戒伝律を任される。日本仏教の総帥として迎え入れられたということになるね。
鑑真和上は756年には大僧都、続いて大和上という号を受ける。ここで鑑真和上が常人ではないところは、政治への関係を絶って僧綱を辞し後進の育成に励んだという点」
「それは真似しようと思っても真似出来ない。
鑑真が日本への渡航を決心したのは榮叡と普照という日本人僧が懇願したことが直接の契機だとされている。その時、鑑真は揚州の大明寺にあって名声が十分に確立していたわけよね。
それを捨てて、しかもその結果として失明までしてしまうのだけれども、それでも諦めずに日本へとやってきたわけでしょ。
将に仏教に生きた人と言えるわね」
「揚州江陽県に持統2(688)に生まれ、南山律宗の祖である道宣の弟子の道岸に菩薩戒を受け恒景より具足戒を受け、大明寺に居を定めた時点で54歳。若いとは言えない。
やっぱり、その仏教にかけたヴァイタリティにだけでも敬服せざるを得ない」



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