金曜日, 2月 13, 2004
喪失の国、日本
本の題名が洒落ている。思わず、その題名に引き寄せられて本書を手にとった。欧米の人達の目から見た日本像というのは数多ある。
インド人の目から見たというのはどうなのだろうか。私は初めてである。
著者は92年4月から94年1月まで日本に市場調査の為に滞在したとのこと。そして、日本の現状とインドとを比較して驚き嘆き感嘆する。
日本の文化が並べる文化であり、インドの文化が混ぜる文化だというのは面白い観察だ。今まで、そういうことは考えつきもしなかった。言われてみると、その通りだと頷けるところもある。何と言っても、インドはカレーの国。カレーは色々な素材を入れてぐつぐつとやるではないか。
それはそうなのだが、日本でも鍋がある。鍋に麺から魚から肉から何でも入れてグツグツとやる。だから、日本とインドとで違いはないとも言えるかもしれない。そうではあっても、その視点が非常に興味深いと感じた。
例えば、日本の文化は恥じの文化だと言われているが、その恥は、著者はそうした言葉を直接には使ってはいないのだけれども、相対的な恥であって絶対的な恥ではないのだと看破している。
それは見事な洞察だと言って間違いないだろう。日本における恥じらいの度合いが変化してきたというわけではない。もともと、日本における恥という概念は仲間内だけでは恥を極度に感じるけれども、仲間でない人々の前では恥じを全く感じないという、そういう恥じなのである。これは、薄々は日本人自身も感じていると思う。但し、本質的であるだけに、そして日本の文化が恥じの文化であるという考えが浸透しているだけに、そうしたことを簡単には認めることは難しいということはあるだろう。
その点、インド人である著者には何ら躊躇いもない。
ここまでで終わってしまうと本書の面白さを半分も伝えたことにはならないだろう。
本書は単に日本とインドの文化を比較しただけではなく、急速に失われていきつつある日本の文化の証言者として、その喪われつつあるものを指摘している。
「ラスト・サムライ」で日本の武士道という古風なものに注目が集まっている時期だけに、インド人の目を通して日本が90年代を境に喪っていったものを再認識するには良い機会を提供してくれる。
喪失の国、日本―インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」 文春文庫
M.K.シャルマ (著), 山田 和
インド人の目から見たというのはどうなのだろうか。私は初めてである。
著者は92年4月から94年1月まで日本に市場調査の為に滞在したとのこと。そして、日本の現状とインドとを比較して驚き嘆き感嘆する。
日本の文化が並べる文化であり、インドの文化が混ぜる文化だというのは面白い観察だ。今まで、そういうことは考えつきもしなかった。言われてみると、その通りだと頷けるところもある。何と言っても、インドはカレーの国。カレーは色々な素材を入れてぐつぐつとやるではないか。
それはそうなのだが、日本でも鍋がある。鍋に麺から魚から肉から何でも入れてグツグツとやる。だから、日本とインドとで違いはないとも言えるかもしれない。そうではあっても、その視点が非常に興味深いと感じた。
例えば、日本の文化は恥じの文化だと言われているが、その恥は、著者はそうした言葉を直接には使ってはいないのだけれども、相対的な恥であって絶対的な恥ではないのだと看破している。
それは見事な洞察だと言って間違いないだろう。日本における恥じらいの度合いが変化してきたというわけではない。もともと、日本における恥という概念は仲間内だけでは恥を極度に感じるけれども、仲間でない人々の前では恥じを全く感じないという、そういう恥じなのである。これは、薄々は日本人自身も感じていると思う。但し、本質的であるだけに、そして日本の文化が恥じの文化であるという考えが浸透しているだけに、そうしたことを簡単には認めることは難しいということはあるだろう。
その点、インド人である著者には何ら躊躇いもない。
ここまでで終わってしまうと本書の面白さを半分も伝えたことにはならないだろう。
本書は単に日本とインドの文化を比較しただけではなく、急速に失われていきつつある日本の文化の証言者として、その喪われつつあるものを指摘している。
「ラスト・サムライ」で日本の武士道という古風なものに注目が集まっている時期だけに、インド人の目を通して日本が90年代を境に喪っていったものを再認識するには良い機会を提供してくれる。
喪失の国、日本―インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」 文春文庫
M.K.シャルマ (著), 山田 和