金曜日, 3月 05, 2004

犬儒派 

「世の中を見ていると妙に知ったかぶってるのに本質的なところを押えていなかったりする場合がある。何気なく過ごしていると、僕もそうなってしまうように思うから普段から時折知ったかぶりに陥らないように陥らないようにと呪文のように念仏のように心の中で唱えているんだけどね」
「誰にでもあるわよ。
自分では知ったかぶっていないように思っていても他人がどう思っているのかは分からない。
だからこそ、一般に言われていることに対して、『それって本当なの?』って一度立ち止まって考えてみる必要があるわけよね。インターネットが普及したことで知識を簡単に誰でも得ようと思えば得ることが出来るようになったでしょ。以前は大きな図書館に行って何時間もかけて調べたり、専門家の教えを乞う必要があったりした。
インターネットが普及しても、自分の頭とインターネット上の知識だけで全てを知ることが出来るのかっていうとそうではなくて、やはりその道の専門家の教えを乞わなければいけないようなことは非常に沢山ある。
そうしたことを前提としても、というのか、簡単に調べられる範囲が広がって時間の節約が出来るようになってきたからこそ、知識を得た後に一度は自分の頭で考えてみる必要があるとも言えるんじゃない」
「自分の頭で考えるというのがシンドイというか、面倒くさいというような場合は、せめて世の中の通説に批判的な人の言っていることに耳を傾ける余裕を持つことが大事になるんだろうね。
こうしたことが大事であることは古代ギリシア時代の昔から認識されてきたこと。批判的なという言葉は英語ではシニカルっていうけど、これは通説に対して批判を繰り返した古代ギリシアの犬儒派と呼ばれる哲学者集団に由来する。
有名なのが、プラトンを批判しアレクサンダーをコケにしたディオゲネス(Διογένης)」
「通りかかったアレクサンダー大王に対して道を退かなかったばかりか、望みを聞かれて『そこを退け邪魔だ』とかって言ったという人でしょ。
デフォルメされてはいるんだろうけどね。
乞食同然の生活をしていて、樽を住まいとしたとか、着るべきものを着ていなかったとか、とにかく変人哲学者だって伝えられている。乞食同然の生活をしていたために市民から犬と呼ばれたことが犬儒派の由来とか、ディオゲネス(Διογένης)の故郷がシノペであったために犬儒派と呼ばれたとか。
自分の師匠でソクラテスの弟子であるアンティステネスを批判したということを考えても変人ではあるのだけれども、批判の対象となったアレキサンダー大王もプラトンも彼に一定の敬意を表しているところが彼が単なる乞食でも変人でもなかったことの証ね」
「いくら自分の頭で考えることが大事だと言っても、ディオゲネス(Διογένης)のような振る舞いをすることはリスキーだよ。
リスキーだけど、耳を塞ぐことは出来ないし、耳を塞いでしまっては世の中がオカシナ方向に行ってしまうかもしれない。
それに、普通の人の中にも、そういう人々の言葉を待望する空気はあるね」
「呉智英さんの『犬儒派だもの』の中に基礎的な型を重視するジャーナリストの方の文章に対する将に犬儒派的批評が載っているのね。
型が大事と書いた後で、須らくという語を全て、全部という意味で用いているということを皮肉を込めて書かれている。ク活用だから『須く』なんだとか、『須く』は『須く○○すべし』と使うべきだとか。
これだけでも、型が大事と書いていて、型を無視したものに難を書いている本人が型を破っていることを皮肉たっぷりに言っているわけね。
でもね、そこに留まらず、別の新聞でも同じ誤用があることを指摘して、それならば、わざわざ難しい言葉を使わずにコギャル言葉ででも書いたほうが分かりやすいじゃないかと」
「そこまで言ってしまうところが題名の『犬儒派だもの』に表れているんだろうね」


cover

犬儒派だもの
呉 智英 (著)

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