月曜日, 3月 08, 2004

近江商人 

「5日に『たそがれ清兵衛』がテレビで放映されたけど撮影場所の一つが彦根城だったらしいわよ。
彦根城は良い形のお城よね」
「何年前だったかなぁ、行ったのは。
あの辺りって西武系列のバスが多く走っていたね。西武の発祥の地だよね、彦根のある近江は」
「西武だけじゃないわよ。高島屋は江戸時代の終わりに高島郡南新保村出身の飯田儀兵衛が京都で高島屋飯田儀兵衛という米穀店を営んで、彼の娘婿の新七が、このお店を引き継いで高島屋飯田呉服店としたのが始まりだから、高島屋も近江が発祥の地というか所縁の地。天保2(1831)年のことね。
それ以外にも丸紅や伊藤忠も近江に繋がりがある」
「奢者必不久、自彊不息で知られる近江商人かぁ。
八幡、日野、五箇荘といった蒲生、神崎、愛知郡の近江中郡の商人が有名だね。
蒲生というのは大名の蒲生氏の統治したところで確か、ここの日野商人は蒲生氏が会津に移ったことを契機に関東から東北にかけて勢力を伸ばしたわね」
「上総で日野椀の製造販売を行ったことで知られている中井源左衛門とかね。
司馬遼太郎氏が『歴史を紀行する』の中で近江商人を華僑に擬えて産業資本に対する商業資本であったとしている。だけど、中井源左衛門の活動などをみると産業資本化する土壌もあるにはあったことになるね」
「もう一つ、司馬さんは、近江商人に渡来人の血が色濃く流れていることが、近江商人を他の地方の商人とは異ならせることになっているのではないかというような考察を披瀝されている。
新羅の国王(こにきし)の子である天日矛が大陸から海を渡って若狭に上陸し近江を経て但馬に定住。近江にも一部が居住したという伝説がある。
その伝説を裏付けるように、近江には新羅の勢力の痕跡を今でも認めることが出来るのよね」
「新羅に限らず、朝鮮半島の人々は武蔵などの辺境の地にも移住している。だけど、辺境の地に移住した朝鮮半島の人々はそれぞれの辺境に暮らす人々との混血が進んで朝鮮半島の特質を失ってしまったのではないか。その点、近江の人々、近江商人の祖先は混血の影響が最小限に留まったために特質が近世にまで残ったのではないかと氏は説を展開しているね」
「『最後の石段をのぼりきったとき、眼前にひろがった風景のあやしさについては私は生涯わすれることができないだろう』としている石塔寺の石の塔に大陸の匂いを感じるようなスケールの大きな構想は如何にも司馬さんらしい」
「そう思わせるほどに近江商人が日本の商業史に残した足跡というのは大きいってことだよね。そうしたことは近江の人でなければ出来なかったのではないだろうか。どうして、近江の人であって筑紫の人ではないのか。信州の人ではないのか。違いはどこから生じたのか。そういうことを突き詰めて考えていくと、世界に冠たる華僑との共通性に思いが至るし、半島との血の繋がりという伝説も輝きを放ってくるというわけだね」

cover

歴史を紀行する 文春文庫
司馬 遼太郎 (著)

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