水曜日, 12月 15, 2004
尾張統一
織田家は室町時代に越前守護と尾張守護であった斯波義教(義重)の代に越前の織田兵庫助将広の子の常松(信広)が尾張守護代に任命されたことで歴史の表舞台に登場。但し、この常松は守護の側近として京都にいたため、弟の常竹が実質的に尾張の統治を行っていたとされる。
やがて、兄の常松の子孫の大和守家が清洲城を拠点として尾張南部(下四郡)を支配し、弟の常竹の子孫である伊勢守家が尾張北部(上四郡)を岩倉城を拠点に支配するという尾張分割統治体制が確立していく。
さて、時代を信長のころに移そう。
この信長は尾張北部を拠点としていた岩倉城の常竹の系統。但し、嫡流ではない。嫡流は織田信友という人物。この信友は、その当時の尾張守護だった斯波義統を弘治元(1555)年に殺害する。守護とは言っても支配の実権は東西に分かれていた織田両守護家にあったから、下克上の流れとしては当然だったとも言える。
傍流の織田信長の家は尾張北部の流れであるが、尾張南部の守護代大和守達勝に信定が仕えて頭角を表している。この信定は伊勢守信安の兄弟と考えられている。大和守達勝の子が信友。
斯波守護家を滅ぼした織田信友の尾張南部支配も長くは続かない。家臣であった織田信長によって守護殺害を名目として、信友は討伐される。これで、信長は尾張の北部を手に納めたのだが、まだ北部には守護代岩倉城主織田信安・信賢親子が残っていた。
この時に、岩倉織田守護代家の家老を務めていたのが、村上源氏の流れを汲む播州赤松出身の稲田大炊助。主君の織田信賢は稲田大炊助が成り上がり者の織田信長と内通して織田守護代家を滅ぼそうとしているとして、稲田大炊助に切腹させる。この辺りの真相は定かではない。とはいえ、永禄2(1559)年には信賢は本当に信長によって討ち取られた。
これで、信長による尾張統一がなったことになる。
こうして、織田信長が統一した尾張は8世紀初頭の律令国家の時代には「尾治」と書かれていました。このことは、後に尾張徳川家において編纂された尾張の歴史書の題名『小治田之真清水(おはりたのましみず)』からも伺えることが指摘されています。
尾張の「尾」は「御」と同じ意味だと考えられます。尾張の「張(はり)」が「治(はり)
」に通じるものであろうことは尾張の地が木曽三川と総称される木曽川水系の木曽川、長良川、揖斐川によって形成された沖積平野を開墾して出来た地であることからも推測出来ます。
沖積平野(alluvial plain)というと川に出来る三角州を思い浮かべれば良いわけだけれども、川が上流から肥沃な土壌を運んできて形成した土地であるから、農耕に適した土地ということになる。沖積平野は、200万年前から1万年前の間の洪積世に続く沖積世(完新世)に形成されたもの。時代が新しいから土壌が柔らかく耕しやすいというわけ。世界史的に見ると、多くの文明が沖積平野で誕生したことが知られている。
エジプトのナイルデルタしかり、インダス川とガンジス川とに形成されたインド-ガンジス沖積平野しかり、チグリス川とユーフラテス川により形成されたメソポタミア平野しかり。
日本全土を統一する足がかりが尾張という沖積平野で準備されたというのも決して偶然ではないのかもしれないと思ってしまう。
やがて、兄の常松の子孫の大和守家が清洲城を拠点として尾張南部(下四郡)を支配し、弟の常竹の子孫である伊勢守家が尾張北部(上四郡)を岩倉城を拠点に支配するという尾張分割統治体制が確立していく。
さて、時代を信長のころに移そう。
この信長は尾張北部を拠点としていた岩倉城の常竹の系統。但し、嫡流ではない。嫡流は織田信友という人物。この信友は、その当時の尾張守護だった斯波義統を弘治元(1555)年に殺害する。守護とは言っても支配の実権は東西に分かれていた織田両守護家にあったから、下克上の流れとしては当然だったとも言える。
傍流の織田信長の家は尾張北部の流れであるが、尾張南部の守護代大和守達勝に信定が仕えて頭角を表している。この信定は伊勢守信安の兄弟と考えられている。大和守達勝の子が信友。
斯波守護家を滅ぼした織田信友の尾張南部支配も長くは続かない。家臣であった織田信長によって守護殺害を名目として、信友は討伐される。これで、信長は尾張の北部を手に納めたのだが、まだ北部には守護代岩倉城主織田信安・信賢親子が残っていた。
この時に、岩倉織田守護代家の家老を務めていたのが、村上源氏の流れを汲む播州赤松出身の稲田大炊助。主君の織田信賢は稲田大炊助が成り上がり者の織田信長と内通して織田守護代家を滅ぼそうとしているとして、稲田大炊助に切腹させる。この辺りの真相は定かではない。とはいえ、永禄2(1559)年には信賢は本当に信長によって討ち取られた。
これで、信長による尾張統一がなったことになる。
こうして、織田信長が統一した尾張は8世紀初頭の律令国家の時代には「尾治」と書かれていました。このことは、後に尾張徳川家において編纂された尾張の歴史書の題名『小治田之真清水(おはりたのましみず)』からも伺えることが指摘されています。
尾張の「尾」は「御」と同じ意味だと考えられます。尾張の「張(はり)」が「治(はり)
」に通じるものであろうことは尾張の地が木曽三川と総称される木曽川水系の木曽川、長良川、揖斐川によって形成された沖積平野を開墾して出来た地であることからも推測出来ます。
沖積平野(alluvial plain)というと川に出来る三角州を思い浮かべれば良いわけだけれども、川が上流から肥沃な土壌を運んできて形成した土地であるから、農耕に適した土地ということになる。沖積平野は、200万年前から1万年前の間の洪積世に続く沖積世(完新世)に形成されたもの。時代が新しいから土壌が柔らかく耕しやすいというわけ。世界史的に見ると、多くの文明が沖積平野で誕生したことが知られている。
エジプトのナイルデルタしかり、インダス川とガンジス川とに形成されたインド-ガンジス沖積平野しかり、チグリス川とユーフラテス川により形成されたメソポタミア平野しかり。
日本全土を統一する足がかりが尾張という沖積平野で準備されたというのも決して偶然ではないのかもしれないと思ってしまう。