土曜日, 12月 18, 2004

重なる聖地 

世界遺産の街、ランス(Reims)はフランス王が戴冠式を行う場所として知られている。フランスの王位継承者はランスで戴冠式(Sacre)を行って初めて正式なフランス王となるわけだ。
その起源は、それこそ、フランス王国の起源にまで遡る。もっとも、その時はフランク王国といった。
ゲルマン民族の中のフランク族の2大部族、サリ族とリブリア族のうちのサリ族のクローヴィス(465-511)が496年にランス司教レミ(St.Remy,聖レミギウス[440?-534])から洗礼を受けのが始まりとされている。当時、ランスには天使が齎したとされる聖なる油があってこれを全身に塗られた者は神から特別な力を与えられると信じられていた。
こういう謂れがあるから、戴冠式のことを聖別式(Sacre)とか塗油式(Onction)ともいう。聖別というのは、キリスト教では神が神のために分離することを意味する。神が所有権を明確にすることとでも言えるだろう(正確ではないが分かり易く)。
そうして、聖別されたからには、王位継承者はただの人間ではない。もの凄いパワーを内に秘めてフランス全土を統治する君主ということになる。
この生まれ変わりで引合いに出されるのが英仏百年戦争(1337-1453)の最中に、あのジャンヌ・ダルクによってランスで正式に王位に就いた王太子シャルルことシャルル7世。彼が何故、オルレアンでフランス王の宣言を行っていたにも関わらず、王太子と呼ばれていたか。それは、まだ聖別されていなかったからに他ならない。
しかし、何故、ランスか。
クローヴィス(465-511)の時代から、いや、それ以前から、ランスはいわば特別な地、聖地として知られていた。フランスは現在はカトリックの国として知られている。そして、カトリックの聖地とされる場所が多くある。そのカトリックの聖地とされる場所が、実はケルト人の古くからの聖地だったという場合が少なくない。その昔、古代ローマ人がフランスに相当する地をガリアと呼んでいた頃(紀元前6世紀-紀元前1世紀)にはケルト人達が住まう土地だった。カエサルによって紀元前56年にウェネティー族が制圧されるとケルト人はローマ帝国の支配下に、後にはゲルマン民族の支配下に置かれた。ゲルマン民族であるフランス王家に対してフランス西部地方(ブルターニュ公国)が半独立の姿勢をとり、英仏百年戦争でも鍵を握っていたのには微かにではあっても連綿と続くケルト民族の血が影響していたのかもしれない。ちなみに、ケルト人の地、フランスのブルターニュ(Bretagne)はイギリスの本土であるブリテン島と響きが似ている。似ているのは当たり前で、ローマ帝国に追われてブリテン島に渡ったケルト人達(ブリトン[Britain]人)が5世紀中頃以降のゲルマン民族大移動で押し寄せてきたゲルマン民族のアングロ=サクソン族によって駆逐され再び故地に戻って来た地がブルターニュ(Bretagne)。
というわけで、紀元前4670年から2000年の新石器時代に建造されたメンヒルと呼ばれる列状巨大立石群で知られるブルターニュ南部のカルナック遺跡を初めとしてケルト民族(あるいは)の遺跡が多い。
ナポレオン・ボナパルトことナポレオンI世は慣例に反して、あるいは民衆に支えられた自分をの力こそを信じてか、ランスではなくパリのノートルダム大聖堂で戴冠式を行った(1804年12月2日)。ところが、その地、パリのシテ島も紀元前3世紀頃から定住したケルト民族のパリシイ人達の聖地だったことが知られている。
聖地の上に聖地が積み重ねられ、それがやがてその上に暮らす人々にも影響を及ぼすということなのかもしれない。しかも、その聖地、カルナック遺跡が冬至や夏至の観測のための建造物ではないかと考えられているように天体の動き、太陽の動きと少なからず関係(レイライン[Leyline])がある。
思考は巡るが、とりあえず今日の所は。

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