土曜日, 11月 06, 2004

吉祥寺四軒寺 

武蔵野八幡宮のすぐ脇にあり、かつて武蔵野八幡宮の別当寺であった安養寺(真言宗豊山派)、道路を挟んで向かいにある光専寺(浄土宗)、アーケード街の只中にある月窓寺(曹洞宗)、少し離れたところにある蓮乗寺(日蓮宗)、これらの寺々と周りの地域を総称して四軒寺という。この寺々は、江戸幕府4代将軍家綱の代、明暦3(1657)年の明暦大火(振袖大火)で、神田吉祥寺門前の人々が後に吉祥寺と呼ばれるようになる五日市街道沿いの牟礼野の地に移住してきたことを契機として整備されたもの。




[安養寺]
多摩新四国八十八カ所霊場第1番札所
武蔵野八幡宮の別当寺を務めてきた安養寺の歴史は古く、寛永元(1624)年に後北条四八将の一人である布施弾正が出家し深忍法印となって不動明王を祀ったことに始まるという。
吉祥寺新田開拓に際して賢乗法印が寺としての形態を整備し現在に至っている。
門前に庚申塔があり、寛文五年乙巳暦と記され開拓に当たった人々の名が刻まれている。



[光専寺]



[蓮乗寺]



[月窓寺]

武蔵野八幡宮(吉祥寺_武蔵) 



吉祥寺という地名は、江戸幕府4代将軍家綱の代、明暦3(1657)年の明暦大火(振袖大火)で焼け出された神田水道橋吉祥寺門前の人々が武蔵野の原野に移り住んで開拓したことに由来する。ちなみに、吉祥寺のほうは現在の文京区本駒込に七堂伽藍を建立して移転した(諏訪山駒込吉祥寺)。
武蔵野八幡宮は吉祥寺村の人々が鎮守として崇敬を集めた神社で安養寺を別当としていた。もっとも、武蔵野八幡宮自体の歴史が明暦年間以前に遡る、つまり吉祥寺村の開拓以前から神社があったということは、建武2(1335)年以降のものとされる板碑や蕨手の刀が出土しているからも窺える。特に、蕨手の刀は都内では浅草鳥越神社と武蔵野八幡宮にしか存在しないという。更に、神社には桓武帝の延暦8(789)年に征夷大将軍坂上田村麿が宇佐八幡宮の分霊(誉田別尊、比賣大神、大帯比賣命)を祀ったということを伝えていることからも古さが分かる。
道路を越えると、すぐそばに吉祥寺のアーケード街があって賑やかなのとは対照的に境内には穏やかな空気が流れている。
駅前から続くアーケード街で買い物をした後で少し疲れたら一休みするには絶好の近さを備えている。
そういえば、初めてパソコン(コンパックだった)を購入したのは吉祥寺。年末も年末という時に秋葉原では手頃なもので即持ち帰ることが出来るというものが無くて、秋葉原の店員さんに吉祥寺のお店を紹介してもらって購入したのを思い出す。
その時も確かこの神社で一休みした。

ツナガラナイ 

見通せるような空気に包まれた朝の静けさを破って三度鳴る電話

手を伸ばすと途切れる音

いつもの時間
覚えのある時
かつての約束

でも、それだけじゃ
たった、それだけじゃ分からないよ

通じない心
届くことのない声
断たれる糸

意図しない展開
戻れない時間
開かない扉

どうしようもない気持ち
受け入れられない想い



金曜日, 11月 05, 2004

少し予定外 

休みの窪み。とでも形容したくなる。休日オセロ化計画を実行したいところだけれど、そうは上手いこと転がらない。
休日オセロ化というのは休みに挟まれた日を休んでしまおうというもの。それは中々、ディスカバリー・ジャパン。だと思うのだが。
そうもいかなかったので朝から予定を予定通りにこなす。少し予定外だったのは期待していたK氏からの連絡が無かったこと。まあ、こういうこともある。こちらから一報を入れても良いけれど、それでは仕事を急かすようで申し訳ない。こういう時は気長に待つが一番。
明日は休みだし。


金毘羅橋馬頭観音 

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武蔵村山の南には多摩川の水を引く玉川上水が流れる。
玉川上水に架かる金毘羅橋は立川から村山への入口。
今では信じられないが、この辺りに運搬用の船が発着していた。
上水岸の緑道は散歩コース。

木曜日, 11月 04, 2004

空と地上と 

本当に何にもない。
空に何一つない。
これだけ何もないと空虚さの意味も脳幹に染み込む。
空虚だということは、その中に虚しさという字を含む。
けれども、この空を見ると虚しさなんてひとかけらもない。
何もないということ。
そんなものを見ていると、ひょっとすると地上のごみごみとした世界こそが虚ろの世界なのではないのか。そう思えてきてしまう。



ここは日産自動車村山工場の跡地
既に工場の名残は新海道(写真の奥)にある販売店のみ。
後は、少しづつ新しい建物が姿を見せ始めている(写真にも建設中のビルが写っている)。



広々とした工場跡地の風景を見ることが出来るのもあとどの位だろうか。


阿豆佐味天神社(砂川_武蔵) 

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雲が一つもない。風もない。
今日は自宅で仕事。文明堂におやつを買いに行くついでに気晴らしに散歩。
この神社は寛永6年に 殿ケ谷から分社。本殿は一間社流造正面軒破風付こけらふき。
砂川開拓のシンボル。

水曜日, 11月 03, 2004

正一位岩走神社(五日市_武蔵) 

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大悲願寺から再び五輪坂を下り秋川に沿って伊奈宿のほうに歩くと正一位岩走神社。
七五三の家族に出逢う。正装の神主も。

大悲願寺(五日市_武蔵) 

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何と逞しい仁王門。
うっとりしてしまう、この寺は源 頼朝の開基と伝わる真言宗の古刹。
本堂は元禄年間の再建で周囲には伊達政宗が所望したという白萩に囲まれている。もっとも、今の季節では一面の緑、緑、緑。

五輪坂の小屋 

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横沢の大悲願寺へと至る五輪坂にある民家の農具小屋。
こういう建物は是非とも永く残っていてもらいたい。

阿伎留神社(五日市_武蔵) 

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多摩八座の筆頭として延喜式に掲げられている古社。
この辺りの地名から松原さんとも呼ばれる。
境内の脇から小路に入って下って行き川を渡ると広徳寺。距離も程よく散策には最適。






長閑な午後 

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広徳寺のある高台から望む五日市は小和田の集落。
武蔵野の、多摩の原風景を見る。
将門も、武蔵七党の武者達も、あるいは北条の猛者達もこの景色を目の当たりにしたのだろうかと思うと感慨深い。

広徳寺(五日市_武蔵) 

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1373年に正應了受居士によって創建された臨済宗の名刹。
後に北条氏康によって中興された。
観光ルートではあるものの、静かで落ち着く境内は喧騒を忘れさせてくれる。





五日市散歩 

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目を覚ましたらあまりに天気が良いので、とるものもとりあえず電車に。
予定外。
ふらりと西多摩はあきる野の五日市へ。
親切に道を教えてくれた石川美樹さん有難う。


秋川の上流を望む。


秋川の川べりはほんのり色づいて。


川のほとりにある粟島神社。

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