水曜日, 5月 18, 2005
頭の中は不思議がいっぱい
昨日に引き続いて朝から雲一つない晴天。近くに日産の工場跡地がある。病院やらショッピングセンターなど様々な施設が建設予定だが、今のところ、広大な空き地が広がっている。
今日のような日には非常に見晴らしが良い。何も障害物がないので、工場跡地のすぐ向こう側だけでなく、ずっと先まで見通せる。
富士山も見える。
昔は、住宅街が広がっていなくて、林が沢山あった。畑も沢山あって、風の強い日などは土ぼこりが舞った。洗濯物を外に干しておくと汚れたほど。
林は子供の時分には絶好の遊び場だった。秘密基地と称して、実は秘密でも何でもないのだけれど、大きな木の上に小さな粗末な壊れ易い小屋のようなものを皆で拵えて、○○ゴッコをしたもの。
そんなことを思い出す。
思い出せばきりがなくて、本当に様々な思い出が、次から次と湧き上がってくる。
こういうことが出来るのも記憶という仕組みがあるからこそ。ただ、問題は記憶という代物は、特に自分の場合は妙に実感してしまったりするのだけれども、実際の出来事とは違っていたりすることがある。思い込みが入っていたり、思い込みが入っていなくても、その後の出来事などに左右されて、初めは実際に起きていた出来事をほぼそのままに記憶していたにもかかわらず、ちょっとづつズレてしまう。そのちょっとづつの積み重ねが、年を重ねると大きなものになって、とんでもないズレになっていたりとか。
昔、一緒に遊んだ仲間と久しぶりに会って話しをしたりすると、そうしたズレが発覚する。ズレがあることが分かるのだが、おそらくはそれぞれの記憶にズレが出てきてしまっているので、実際の出来事がどうであったのかなどといったことは検証することは出来ない。
それは、それで良くないということはない。当時から現在に至るまでのお互いの、共有した出来事に対する思いというが分かるので楽しいというような面もある。
約1カ月前に、ずぶぬれの黒いタキシードという姿でイギリスのケント州に現れたピアノマンと呼ばれる記憶喪失の男性。ピアノでチャイコフスキーの「白鳥の湖」などをプロのように弾きこなし、ピアノの絵とスウェーデン国旗を描いた他は言葉を話すことが出来ないという。
彼に一体何が起きたのか。世界中の注目を集めている。
記憶というものは、自分自身を形作る個人的なエピソードなどの主観的な記憶である「エピソード記憶」と、知識に代表される物事の名前といった客観的なものの記憶である「意味記憶」、意識することなしに思い出せるような、無意識の行動のもとになるような「手続記憶/技の記憶があるとされている。個人的なエピソードに関する記憶と客観的な記憶は合わせて「事柄の記憶」と呼ばれることもある。これは、相互に関係しているから。
こうした様々な記憶はすぐに出来上がるわけではなく、一時的な短期記憶から始まって、短期記憶が何度も繰り返されると長期記憶として正式に頭の中に定着することになる。
脳の中の研究はまさに現在進行形なので、今後新たなことが科学者の手で明らかにされていくだろう。
今の段階で「こうだろう」と思われているのは、外部の刺激が大脳皮質という場所に送られて分析された後に、大脳辺縁系と呼ばれる場所に信号として送り込まれる。
記憶が信号になっているという辺りは、まるでコンピュータのようではある。
大脳辺縁系の海馬と呼ばれる妙な形をしたところの周辺は一時的な記憶が蓄積される場所。
テスト前日の一夜漬けで大いに活躍している場所と言える。一夜漬けの習慣が身についてしまった人は、きっと海馬の周辺が大きくなっているに違いない。海馬への刺激が何回も繰り返されると、信号は最初に通った大脳新皮質に戻される。
大脳新皮質で記憶が定着し本物の記憶となっていく。この大脳新皮質は哺乳類の脳とも呼ばれ、鳥にはないことが知られている。
ところが、鳥は哺乳類と同じように高度な知能を備えていると考えられる行動を採る。
実は、どうして、こうなるのかは科学の一大ミステリーになっている。
「ピアノマン」の不思議と同様、脳というのは身近でありながら、まだまだ知らないことが沢山あるという科学のフロンティア。
<<一言主>>
○枦は櫨の略字で、「はぜ」というのは、うるし科うるし属の植物。学名はRhus succedanea。
○名寄はアイヌ語で渓流に注ぐ口を意味する「ナイオロプト」が訛ったもの。
○風連はアイヌ語で赤い川を意味する「フーレペツ」から。
○士別はアイヌ語で川の岸辺を意味する「シペツ」が語源。
○函館は1454(享徳3)年まではアイヌ語で湾の端を意味する「ウスケシ(宇須岸)」と呼ばれていた。
○日本語の形容詞のうち、簡単だ、もっともだ、のように基本形が「-だ」で終わる形容詞をナ形容詞あるいは形容動詞という。これは名詞の前に付くと、「-な」となることによる。
今日のような日には非常に見晴らしが良い。何も障害物がないので、工場跡地のすぐ向こう側だけでなく、ずっと先まで見通せる。
富士山も見える。
昔は、住宅街が広がっていなくて、林が沢山あった。畑も沢山あって、風の強い日などは土ぼこりが舞った。洗濯物を外に干しておくと汚れたほど。
林は子供の時分には絶好の遊び場だった。秘密基地と称して、実は秘密でも何でもないのだけれど、大きな木の上に小さな粗末な壊れ易い小屋のようなものを皆で拵えて、○○ゴッコをしたもの。
そんなことを思い出す。
思い出せばきりがなくて、本当に様々な思い出が、次から次と湧き上がってくる。
こういうことが出来るのも記憶という仕組みがあるからこそ。ただ、問題は記憶という代物は、特に自分の場合は妙に実感してしまったりするのだけれども、実際の出来事とは違っていたりすることがある。思い込みが入っていたり、思い込みが入っていなくても、その後の出来事などに左右されて、初めは実際に起きていた出来事をほぼそのままに記憶していたにもかかわらず、ちょっとづつズレてしまう。そのちょっとづつの積み重ねが、年を重ねると大きなものになって、とんでもないズレになっていたりとか。
昔、一緒に遊んだ仲間と久しぶりに会って話しをしたりすると、そうしたズレが発覚する。ズレがあることが分かるのだが、おそらくはそれぞれの記憶にズレが出てきてしまっているので、実際の出来事がどうであったのかなどといったことは検証することは出来ない。
それは、それで良くないということはない。当時から現在に至るまでのお互いの、共有した出来事に対する思いというが分かるので楽しいというような面もある。
約1カ月前に、ずぶぬれの黒いタキシードという姿でイギリスのケント州に現れたピアノマンと呼ばれる記憶喪失の男性。ピアノでチャイコフスキーの「白鳥の湖」などをプロのように弾きこなし、ピアノの絵とスウェーデン国旗を描いた他は言葉を話すことが出来ないという。
彼に一体何が起きたのか。世界中の注目を集めている。
記憶というものは、自分自身を形作る個人的なエピソードなどの主観的な記憶である「エピソード記憶」と、知識に代表される物事の名前といった客観的なものの記憶である「意味記憶」、意識することなしに思い出せるような、無意識の行動のもとになるような「手続記憶/技の記憶があるとされている。個人的なエピソードに関する記憶と客観的な記憶は合わせて「事柄の記憶」と呼ばれることもある。これは、相互に関係しているから。
こうした様々な記憶はすぐに出来上がるわけではなく、一時的な短期記憶から始まって、短期記憶が何度も繰り返されると長期記憶として正式に頭の中に定着することになる。
脳の中の研究はまさに現在進行形なので、今後新たなことが科学者の手で明らかにされていくだろう。
今の段階で「こうだろう」と思われているのは、外部の刺激が大脳皮質という場所に送られて分析された後に、大脳辺縁系と呼ばれる場所に信号として送り込まれる。
記憶が信号になっているという辺りは、まるでコンピュータのようではある。
大脳辺縁系の海馬と呼ばれる妙な形をしたところの周辺は一時的な記憶が蓄積される場所。
テスト前日の一夜漬けで大いに活躍している場所と言える。一夜漬けの習慣が身についてしまった人は、きっと海馬の周辺が大きくなっているに違いない。海馬への刺激が何回も繰り返されると、信号は最初に通った大脳新皮質に戻される。
大脳新皮質で記憶が定着し本物の記憶となっていく。この大脳新皮質は哺乳類の脳とも呼ばれ、鳥にはないことが知られている。
ところが、鳥は哺乳類と同じように高度な知能を備えていると考えられる行動を採る。
実は、どうして、こうなるのかは科学の一大ミステリーになっている。
「ピアノマン」の不思議と同様、脳というのは身近でありながら、まだまだ知らないことが沢山あるという科学のフロンティア。
<<一言主>>
○枦は櫨の略字で、「はぜ」というのは、うるし科うるし属の植物。学名はRhus succedanea。
○名寄はアイヌ語で渓流に注ぐ口を意味する「ナイオロプト」が訛ったもの。
○風連はアイヌ語で赤い川を意味する「フーレペツ」から。
○士別はアイヌ語で川の岸辺を意味する「シペツ」が語源。
○函館は1454(享徳3)年まではアイヌ語で湾の端を意味する「ウスケシ(宇須岸)」と呼ばれていた。
○日本語の形容詞のうち、簡単だ、もっともだ、のように基本形が「-だ」で終わる形容詞をナ形容詞あるいは形容動詞という。これは名詞の前に付くと、「-な」となることによる。