日曜日, 7月 10, 2005
勝常寺(会津)
「会津って仏都なのよねぇ。盆地の中にかなりの古刹がある」
「会津というと、若松の鶴ヶ城に白虎隊、それから喜多方というのが定番。
会津が徳一上人が興した仏教の地だということは知られていないね」
「徳一上人っていうけど、それ以前にも高寺伝説があるでしょ」
「地元の人たちは信じている伝説ね。
でも、肝心の遺跡が発見されていないことや、中央の正式な文書が残っていないことから、民間伝説にしか過ぎないとされている」
「あら、そうやって言うけれど、書かれて残っていることが全てではないでしょ。
それに、日本列島への仏教伝来のすぐ後に建立されたという会津の高寺は、多くの僧坊を抱えていたって伝えられている。
多くの僧坊があったからこそ、本家の高寺の寺宝がそういった僧坊に降ろされて(高寺下ろし)いるわけでしょ」
「そう言われているよね。後に徳一上人が興した多くの寺院も高寺の流れを汲んでいるとされているね。
おっと、勝常寺に着いたよ。
ちょっと道が狭かったけど。
ここは、その徳一上人によって807(大同2)年に開かれた古刹。30体以上の仏像、それも平安時代初期から鎌倉時代にかけての仏像があることで東北屈指の寺院だ」
「その前に、徳一上人というと、伝教大師最澄の論敵。あの最澄を言葉で打ち負かしたのよね。
打ち負かしてしまったのがいけなかったんだけど」
「そうりゃそうだよ。最澄は平安京にいるわけでしょ。日本仏教の中心地にいたわけだ。
それに比べると、徳一は当時、魑魅魍魎が跋扈すると言われ、半島からの移住者や朝廷にしぶしぶ従った蝦夷たちが開拓して暮らしていた坂東の地、今の関東平野だけど、そこよりもさらに北の地の会津に住んでいた。
そんな所に住んでいた人物が日本仏教の中心人物を言い負かしてしまったんだよ。
こうなったら、歴史の記録からは消されるよね」
「創建当初から勝常寺と呼ばれていたわけではないようだけれど、寺そのものの位置は変わっていないみたいね。
当初は七堂伽藍を備えて講堂から一直線に南に金堂、中門、南大門と並び、12の坊舎が連なっていたというから凄いわねぇ」
「薬師如来坐像と左右の日光菩薩立像、月光菩薩立像が国宝。
かつての講堂である薬師堂、十一面観音菩薩立像、聖観音菩薩立像、それから四天王立像、虚空蔵菩薩と言われる天都像立像、さらに雨乞いのために頭から水をかけたという雨降り地蔵こと地蔵菩薩立像が重要文化財。
う?ん、これだけで楽しみ楽しみ」
「それじゃあ、拝観しましょうか」