長氏_清和源氏満仲流_加賀国金沢藩八家
 加賀藩の最高家臣八家の一つで3万3000石を誇った長氏。その長氏は清和源氏の満仲流を称している。源 季頼が大和国に住んで長谷部氏を称したというが、素直に長谷部氏の末裔とする向きもある。また、物部氏の流れを汲むともされる。
ともあれ、為連が遠江国長村で生まれ育ったことから「長」を称したという。
その為連の子である信連は以仁王の挙兵に馳せ参じ平家の縄目を受けている。さらに、三条高倉宮に仕え奮戦したことが『源平盛衰記』で知られている。その中で、長谷部信連が長兵衛尉と称していたとの記述があることで、この頃までには「長」を名乗っていたことが分かる。そして、長氏はこの戦功によって文治2(1186)年に源 頼朝(鎌倉殿)によって御家人に列されている。同時に安芸国の検非違使に任命され所領も与えられている。しかし、信連は建保6(1218)年に能登国大屋庄で没していることから安芸国へは下向せずに、大屋庄の地頭職として当地に留まったと考えられている。
能登国大屋庄地頭としての信連の子孫は、その後、能登に広く勢力を拡大させていく。
元弘・建武の争乱時期には、長 盛連は名越時兼を討伐する桃井直常の軍に加わっている。
能登国には他の有力武士団も割拠していた。事実、氏連の代には長氏は温井氏との戦いで穴水城を落とされている。
やがて、続連および綱連の代には能登守護畠山氏に重用されるに至る。しかし、能登国は幾つかの有力武士団の割拠する地で有り続けた。そして、下克上の中、その有力武士団は畠山守護家に取って代わることを目指すのは必然の流れでもあったといえよう。
能登の騒乱はこうして起こった。
発端は畠山義続の重臣である遊佐続光が越中の鞍川氏と手を結んだことにある。身の危険を感じた畠山義続は同じく重臣である長 続連に助けを求め庇護下に入る。こうなると面白くないのは、長氏と積年のライバルである温井氏。温井景長は畠山義続の弟である義則を守護として擁立。事態は複雑に、そしてドミノ式に動いて遂には長 氏対温井氏の戦いとなるのである。この戦い、畠山義則・温井景長陣営が勝利を収める。しかし、それで終わりではなかったのである。一連の簒奪劇を良しとしない畠山義綱の従兄弟である一門の飯川義宗が軍を動かし、勝利に酔いしれる温井景長を追放。後ろ盾を失った畠山義則も当主の座を逐われる。その代わりに義綱の子義隆が擁立され、これを長綱連が執事として輔佐することになる。
ところが、事態はこれでも収まらなかった。
遊佐氏、温井氏が畠山義隆を屠ったのである。急遽、若干2歳の義春が後継とされる。これで落ち着くかに見えたものの、今度は越後の虎、上杉謙信の軍が能登国を襲う。そして、天正4(1576)年に始まった上杉謙信の七尾城攻撃の翌年に畠山義春が病没する。
事ここに至って打つ手なしである。
呉越同舟の重臣達は上杉謙信の軍門に下ることを決意する。
ただ長 綱連を除いて。
長 綱連は能登国の命運を天下布武を唱える尾張国の織田信長に預ける決心を固め連龍を急派。長 連龍は織田軍の援軍とともに能登に戻ってくるも、既に時遅く、織田に援軍を求めたことが露顕した長 続連、綱連父子は誅殺されていた。
長 連龍は織田軍の支援のもとで能登国を回復し能登、鹿島半郡3万石を拝領。さらに、一族を屠った遊佐続光を討伐した。ここに漸く長 氏は安定した地位を得るに至る。
その後、能登国を領知する前田利家の与力となり、八家として加賀前田家を明治に至るまで支え続けた。