藤原南家
北家、式家、京家と並ぶ藤原四家の一つ。
藤原不比等の長男である左大臣 武智麿 を祖とする。武智麿の邸宅が、弟の房前の邸宅と南北に並んでいたために南家と称された。
当初、他の四家よりも隆盛を誇り、武智麿の子 豊成 も右大臣にまで上った。
さらに、豊成の弟 仲麻呂 は光明皇后の厚い信頼のもと朝廷で活躍。もう一人の実力者であった橘諸兄と競う。
孝謙帝の代には、天武帝の皇子である新田部親王の子で皇太子であった道祖王(?-757)を廃し、大炊王を皇太子に擁立する。この大炊王が後の淳仁帝である。
続いて、橘諸兄の子の橘奈良麻呂が仲麻呂の一連の動きに反発し叛乱を計画する。この計画には古代軍事貴族として名を馳せた大伴氏の他に、仲麻呂のために廃太子された道祖王も加わっていたとされる。いわば、反仲麻呂勢力の一大結集であったといえよう。
一大結集は仲麻呂を倒す絶好の機会であったが、一方の仲麻呂にしても反対勢力を一掃できるまたとない機会だった。
そして、仲麻呂の方が橘奈良麻呂よりも一枚上手だったということになるだろうか。計画は事前に漏洩し、仲麻呂は見事に反対勢力の駆逐に成功する。
難局を無事乗り切った仲麻呂の権勢は、自分が擁立した淳仁帝の即位によって増していく。この時に恵美押勝の名を受けている。
そんな中で、既に下り坂は用意されていた。
孝謙上皇の寵愛を受けた道鏡の台頭である。仲麻呂は、道鏡を駆逐しようと試みる。仲麻呂は塩焼王(氷川塩焼)を擁して近江に走るも朝廷軍の手に掛かる(仲麻呂の乱,天平宝字8[764]年)。
その後、仲麻呂の甥である中納言 継縄 も東北の地に起こった伊治呰麻呂の乱(宝亀11[780]年)に際して征東大使に任命されるも不手際から解任されるなどして一族全体の政治的影響力を失っていく。
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