箱田氏_藤原北家基忠流成田氏
成田太郎大夫助広の子小次郎廣能が武蔵国幡羅郡箱田邑を領し称したことに始まる。別伝に曰く、武蔵七党の一つ横山党の横山氏の資孝の子三郎が成田氏の祖と。
成田三郎という人が箱田邑にあったことは円明寺の三郎社という社が存在し成田三郎を祀ったと伝えることから分かる。但し、この成田三郎が横山党の小野姓成田氏の三郎某なのか藤原姓成田氏の刑部丞廣忠の子、三郎兵衛尉能忠なのかは明確ではない。
現在、熊谷市に箱田館の遺跡が残り、平安時代に箱田三郎が城主であったことが伝えられている。この成田三郎は横山党の成田成任の弟の箱田三郎とされている。
また、源 義経に従った箱田小太郎廣貞という人物も箱田の出身であるとされる。この箱田氏は壇ノ浦における戦功によって長門国下津井の地頭職を得て下向したという。
子孫は下津の長光寺を本拠として統治し、正和年間(1312-17)に箱田貞嗣が長光寺を再興したという。その貞嗣の末裔の弘貞は応永年間(1392-1428)に大内氏の家中騒動において大内盛見の将である杉 重綱によって長光寺に攻められ討ち取られている。もっとも、族滅というわけではなく、文明年間(1469-87)に箱田弘貞が下津井の地頭職を務めたとの記録がある(『山口県厚狭記録』)。