今川氏_清和源氏足利氏流_駿河守護家_高家
 足利義氏の孫である国氏が三河国幡豆(はず)郡今川郷に所領を得たことに始まる。駿河国守護家としての今川氏は、この国氏の孫である範氏を以って初代とされている。今川氏が範氏の代に駿河守護職を得るまでは平坦ではなかった。時は建武の親政。鎌倉幕府が倒れ、宗家足利家が名実ともに武門の棟梁として名乗りを上げつつある時に起こる。建武2(1335)年、鎌倉幕府最期の得宗であった北條高時の遺児、北條時行が諏訪頼重に擁立され鎌倉幕府再興を旗印に建武政権に戦いを挑む。やがて、足利軍は北條軍と相模川で激突。この相模川の戦いで今川氏は一族を挙げて奮戦する。結果、頼国、頼周、範満の三兄弟が壮絶なる討死をして果てる。北條時行の乱は中先代の乱と呼ばれ、一時は武蔵国一帯を制圧し鎌倉にあった足利直義を駆逐して鎌倉を手中に収めている。倒幕側最大の最大の試練であったと言えよう。この乱の平定の後、足利高氏は今川一族の死を以っての貢献を賞して末弟である範国に駿河、遠江二カ国の守護職を与えた。ここに駿河守護家としての今川氏のスタートが切られたわけである。2代範氏は室町幕府を二分した観応の擾乱(1350-52)で高氏方として戦功を挙げるも父に先立つ。駿河守護家の家督は氏家に渡されるも氏家もまもなくこの世を去る。その後を還俗した範氏が承継。室町幕府3代将軍義満が将軍家への権力集中を狙って周防、長門、豊前、石見、和泉、紀伊6ヵ国守護である大内義弘を挑発。応永6(1399)年に応永の乱が勃発すると、範氏は幕府側に立って戦っている。なお、この応永の乱では大内側に鎌倉公方足利義兼のほか今川一族で九州探題を務めた今川貞世(了俊)が加わっている。
今川家の綻びは第4代範政の治世の末期に現れる。それは家督相続に際して、範政が嫡男ではなく末子の千代秋丸を挙げたことに端緒を発した。この千代秋丸の母が関東の扇谷上杉氏定の子であるというのが問題とされたのである。当時、今川氏は駿河にあって幕府の最前線として鎌倉方を抑える役割を担っていた。その今川の家督を関東の血縁者が承継することを幕府側は懸念したのである。三管領家細川持之、四職家山名時煕そして今川家臣団の水面下の駆け引きがあったものの、結局は順当に嫡男である彦五郎範忠の家督承継で決着する。
しかし、問題は収束した訳ではなかったのだ。三浦、狩野、富士、興津氏らが湯島城を中心として当主範忠に叛旗を翻すという事態に発展するに至ったのである。これに対して、範忠は岡部、朝比奈、矢部氏を率いて諸氏を討伐、湯島城を落とす。このように波乱のスタートであったが、その後、鎌倉公方足利持氏が関東管領上杉憲實と対立し、上杉憲實が所領上野国に退き、これを持氏が討伐しようとしたことで始まった永享の乱(永享10[1438]-11[39])で幕府側として活躍。鎌倉に攻め入って公方持氏を自刃させた功によって副将軍と称されるに至っている。
範忠の跡を継いだ義忠は応仁の乱に際して、長らく失っていた遠江守護職の回復に意欲を燃やす。当時、遠江守護職は斯波義廉であり西軍に属していた。遠江守護職を得るためには斯波氏を駆逐する必要があるということで、義忠は東軍(細川勝元方)として参戦。しかし、これが思わぬ結果を生むこととなっていく。遠江国に侵入したものの、勝間田氏を中心とする国人領主層の猛攻に遭い文明8(1476)年に塩買坂で討死する。この時、嫡子は未だ幼少の身。賭けは裏目に出た。戦乱の時期にあって幼少の当主では駿河一国を守ることは難しい。家中は再び悪夢のような内紛を繰り返す。一時は幼少の嫡子龍王丸の生母北側殿の兄である後の北條早雲のアイデアで家督は龍王丸が承継するが、元服までは一門の小鹿範満が執政するということで決着を見る。ところが、龍王丸が成長すると、小鹿範満が駿河守護家の家督代行ではなく家督そのものを簒奪しようとし両派が衝突。再び後の北條早雲こと室町幕府申次衆伊勢新九郎の支援で小鹿派を撃破し龍王丸が氏親として家督を継ぐ。
氏親は引続き伊勢新九郎の支援のもとに遠江はおろか三河まで併呑。分国法「仮名目録」を制定し室町幕府から自立を宣言する。この路線を氏輝が継承。氏輝亡き後に、弟の間で家督争いが生じるも義元が勝利を収め、義元は武田信玄、北條氏康との同盟で背後の憂いを拭い、三河から尾張までの併合を目指す。そして、武家の棟梁である足利家の一門として天下に号令することを目指し上洛の途上、桶狭間で織田信長によって討たれた。かつて、義忠が遠江の攻略の途上で国人衆に敗死したことを彷彿とさせるものがある。今川氏はいづれもこれからという時に谷底へと落とされている。
後、氏真が継ぐも劣勢覆いがたく、武田信玄によって駿河館を追われ、掛川城に落ちるも徳川家康によって攻略され事実上の終焉を迎える。
なお、徳川幕府下において高家として命脈を保った。