藤原北家(御堂流)
冬嗣が嵯峨天皇の代に隆盛し、文徳天皇の外戚となる。続いて、冬嗣の子の良房が清和天皇の外戚となり、その養子である基経が朱雀天皇、村上天皇の2代に亘って外戚となったことで摂家流を確立するに至った。
右大臣藤原師輔の長男であった伊尹は太政大臣にまで上り詰めるも早世。次兄の兼通が関白となり、右大臣藤原頼忠から氏長者の地位も譲り受けている。この兼通と兼家との仲は伊尹の後継を巡って争った程に最悪であり、兼通存命中は兼家は逼塞せざるを得なかった。兼通の死の直前には藤原頼忠が後継の関白とされ、兼家は右近衛大将から治部卿へと降格処分まで受けている。
しかし、兼通死後暫くして兼家は政治的な復権を遂げ、一条天皇の外戚となることで、その後の隆盛の基礎を築いた。
永祚元年(989年)には息子の道隆を内大臣とするとともに、兼通が後継としていた太政大臣頼忠の死後に太政大臣に就任している。その後、兼家は関白となる。その地位は嫡男である道隆に承継される。道隆が病没すると、その嫡男の伊周が後継となることは許されず、道隆の弟の道兼(粟田殿、二条殿、町尻殿)が関白となった。
しかし、道兼は関白の就任後僅か数日で病死したために七日関白と称される。ちなみに、この道兼は父親の兼家の命によって兼家の娘の詮子を母とする懐仁親王を即位させるために、花山天皇を欺いて出家させた人物としても知られている。また、宇都宮氏は道兼の子孫を称している。
道兼の死後、先の関白の嫡子である伊周と叔父である道長との熾烈な政治闘争が行われる。結局、氏長者の地位を勝ち取ったのは道長であった。伊周は父親の道隆存命中に強引に取りたてられていたということが裏目に出たとも考えられる。
その後も、伊周と道長は争う。長徳2(996)年、伊周が太政大臣恒徳公藤原為光の四女に通う花山法皇を自分の恋人である為光三女に通っていると勘違いし、弟の隆家とともに射かけるという事件(「長徳の変」)が勃発。事件を知った一条天皇が伊周を大宰権帥に、中納言隆家を出雲権守へと降格させた。かつて、権勢を誇った伊周兄弟の奢りが招いた事とはいえ、事がここに至って兄弟の命運は尽きた。なお、駿河大森氏は伊周の子孫を称している。
闘争を勝ち抜いた道長は一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后し、次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮とし、彰子の生んだ後一条天皇の摂政となって、三女の威子を入れて中宮となし、一家立三后として権力基盤を固めた。
道長の子孫は道長建立の法成寺無量寿院の別名である御堂の名で呼ばれ摂関職を世襲。忠通の息子である基実は近衛家を、基房は松殿家を、兼家は九条家を立てた。近衛家は後に近衛家と鷹司家とに分かれた。九条家は道家の子の代に教実が九条家を継承し、実経が一条家を、良実が二条家を立てた。
ここに、近衛、九条、鷹司、一条、二条の五摂家が成立した。