有馬
室町幕府第8代将軍である足利義政(在職:1449-1473)の側近中の側近に三魔と呼ばれる黒幕が存在していた。御今こと今参局、有馬こと有馬元家、烏丸こと烏丸資任がその三魔である。
有馬氏は鎌倉幕府の打倒、室町幕府の創設に大きく寄与した赤松円心(1277-1350)こと赤松則祐の5男・有馬義祐の後裔。1441年の嘉吉の乱によって赤松満祐は自害し赤松家の所領である播磨国は没収された。
後に、多くは山名持豊に与えられ、明石、美嚢、賀東三郡のみが一族の赤松満政に御料所代官職という形で与えられた。
しかし、それは、かつて赤松氏が保持していた所領と比較すると僅かであると言わざるを得ない。しかも、三郡も没収されて結局は山名持豊の所領となり、赤松満政は1445年に同族の有馬持家によって討ち取られた。赤松氏存亡の危機の只中にあって一族同士の争いが繰り広げられたのである。
それでも、播磨は赤松氏の地であるという意識だけは生き続ける。嘉吉の乱で伯父の満祐に従って幕府から追われる身となっていた則尚は、阿波守護細川持常に庇護を受けた。その則尚は細川持常と政所執事伊勢貞国から播磨への復帰を約束される。
当然、播磨を押さえている山名持豊は猛反発するも、幕府の有力者の後ろ盾を得ている赤松則尚は強気に出て播磨国奪還のために挙兵に及ぶ。幕府も則尚に味方し、細川持常の養嗣子の成之を播磨に派遣し山名持豊討伐を命じる。
ここまでは赤松則尚側の思惑の通りであった。
上手くはいかないものである。歴史の面白さは意外性にこそあると言ってもいい。
細川勝元が山名持豊側に与し幕命を撤回させたのだ。赤松則尚側の黒幕に将軍・足利義政の側近である有馬元家の弟である豊則と則友があり、細川勝元は有馬元家の野望と策謀を察知し忌み嫌ったのだ。
直接戦闘に加わった弟二人は討死し、有馬元家も責任を問われ職を解かれた。
一時、元家は赦免されたものの、赤松家の惣領職を得たいという野望を抑えがたく、後に流浪の足利義視の擁立を画策し黒幕に返り咲こうとしたために、足利義政は赤松政則に命じて元家を討伐した。