十八松平氏
時宗遊行僧徳阿弥は松平郷の在原信重の女婿となり松平親氏と名乗って土着。14世紀末に親氏の弟で松平家第2代となった泰親は親氏の子の信光とともに松平郷から岩津城に進出した。泰親は親氏の嫡男の太郎左衛門信広の名代であって家督を承継してはいないとも言われる。つまり、泰親は岩津に別家を立てたのであって、松平宗家は太郎左衛門信広とする考え方である。
ともあれ、泰親は甥の信光を連れて岩津に拠点を移し、信光を後継者に据えた。泰親には教然良頓、益親の二子があった。教然良頓は浄土宗西山深草派の僧侶として、上和田に浄珠院、幸田の久保田に西方寺、吉良の津平に清海寺を創建している。益親は1443(嘉吉3)年には上洛し日野裏松家の被官として菅浦・大浦荘の代官として活躍した。岩津進出時には泰親・益親親子は別個の経済基盤を有していたのであるが故に泰親は甥の信光をもって後継者としたことは想像に難くない。
この岩津の松平家から竹谷、形原、岡崎(大草)、五井、深溝(五井の分家)、能見、長沢の七松平家が分出した。
信光の代に安祥城を手中に収める。安祥城は親忠に譲られた。これ以降、安城庶家と言われる大給、滝脇、福釜、桜井、青野(東条)、藤井、三木の七家が分出した。