森家(西江原藩主)
源義家の四世孫である森伊豆守頼定を祖とする。織田信長の家臣である森可成の六男・森忠政は、1584年の小牧・長久手の戦いで兄の長可が戦死したために、森家の家督を承継し美濃金山城主となった。
関ヶ原の戦いでは徳川家康方の東軍に与し、1603年に小早川秀秋が死去し小早川家が無嗣改易処分となると信濃川中島藩から美作一国に入封し18万6,500石を得た。森忠政は美作の府庁として津山城を築城したことによって津山藩と称されることになるが、忠政の子の長継が第2代藩主を務め、嫡男の忠継が早世したために、第3代藩主は五男の長武が承継。しかし、長武が1697年に嗣子をなく早世。存命であった第2代藩主の長継は弟の関衆之の養子となっていた九男の関衆利を嗣子とするが江戸への出仕途上で伊勢にて発狂。ここに津山藩森家は改易となる。
しかし、池田家、細川家、前田家から幕府への働きかけによって、備中西江原藩に2万石で森長継に立藩を命じる。
備中西江原藩の第2代藩主として長継は八男の長直を立てた。この長直の代の1706年に播磨赤穂藩へ移封となる。その後を継いだのは、森長継の娘を母に持ち、長直の娘を妻とした森長孝。