牛久藩山口家

常陸国牛久にある牛久城は岡見弾正の築城による。岡見氏は源満季を祖とするとも宇都宮氏流小田氏支流とも言われる家柄。信太・筑波南部に勢力を誇ったが、天正年間(1573-92)に下妻の多賀谷重経によって領地を浸食される。牛久城だけは持ちこたえていたが、岡見氏は後北条方という事で、1590(天正18)年に豊臣秀吉によって落城となった。城主岡見治広は江戸崎に潜居の後、結城秀康に従って越前へと渡った。

その後に、牛久の地を治めたのは多賀谷氏ではない。豊臣秀吉が牛久に据えたのは上野国金山城主由良国繁である。5,400石であった。由良氏は新田義貞の末裔であり上野国を本拠地としていた。しかし、由良氏は徳川幕府高家として存続したが牛久の地を離れた。

由良氏が牛久を離れた時点で牛久城は廃城となった。

牛久に陣屋が設けられたのは1669(寛文9)年の事である。牛久城址の隣に陣屋を構えたのは山口弘隆。大内義弘の次男である持盛は長門守護として長門国の統治を任されたが、周防守護他の守護職を承継した惣領家である大内持世との対立を生じた。そもそも、大内持世は持盛の長門守護職を室町幕府の圧力によって渋々認めたに過ぎない。国人衆が大内持世を支持すると持盛を攻め、豊後国篠崎にて討ち取った。持盛の子の教幸は、内藤武盛、仁保盛安、吉見信頼、周布和兼の支援を受けて、惣領家の大内政弘が京都へ出陣すると周防で叛旗を翻した。しかし、周防留守居役の陶弘護によって撃退される。追い詰められ、結局は豊前馬ヶ岳城にて自害した。その子の仁世は周防の地を離れ尾張の地へと流れた。何故に尾張だったのだろうか。重政の代に至って、織田信長家臣の佐久間正勝に仕えた。山口氏という名は周防国山口を本拠として過去に由来する。その後、山口重勝は織田信長の次男・信雄の家老である星崎城主岡田直孝に仕えた。

石高1万石
城/陣屋牛久陣屋
領内人口8,600人
家臣数70人