奥州探題畠山家


【奥州探題畠山家墓所】
南北朝時代の1345(貞和元)年に北朝方(足利将軍家方)の奥州の要の奥州探題として吉良貞家とともに派遣された畠山高国を初代とする奥州探題畠山家歴代の墓所。

後に、石橋棟義が奥州探題輔佐の目的で派遣され、更に、大崎氏が畠山・吉良両氏に代わって奥州探題に就任したことで奥州畠山家の劣勢は覆いがたくなった。

加えて、鎌倉府が篠川・稲村両公方を奥州に置くと奥州畠山家は一大名とならざるを得なかった。そうして、第11代畠山義継(-1585)の時、畠山方の堀越能登の八丁目城が伊達輝宗によって攻略される。畠山義継は三春城主・田村清顕を仲介役として和睦。

やがて、その田村清顕と対立し、葦名・二階堂と連合。伊達政宗は葦名方に寝返った大内定綱を匿ったという理由で畠山義継に対する討伐軍を催す。

これに対して、畠山義継は降伏。この降伏の条件として伊達輝宗は所領を5ヶ村のみとし、子息を人質とすることを要求。

そもそも、このような条件は飲めるはずがない。

そうして、講和の返礼のために赴いた宮森城にて伊達輝宗の拉致に及んだ。二本松にとって返す途上、伊達政宗に追撃され、高田原にて伊達輝宗と刺し違えた(『粟の須の戦い』)。続いて、伊達政宗は畠山家の居城である二本松城が攻め落とし、ここに奥州畠山家は滅亡した。

畠山義継の子の義孝は生き延びて二本松を名乗って存続した。

なお、墓所のある二本松称念寺は奥州探題第7代畠山満泰(-1448)が建立した寺院。

墓所には『粟の須の戦い』で命運を伴にした家臣23名の霊をも祀る。

上の写真は称念寺の本堂。最初は本堂の裏手に広がる墓所の一画に畠山家の墓所もあると思い探し回った。

それこそ、隅から隅まで探し回る。どこだろうと思っていた所に、お寺の方と丁度出くわし、場所をご教示願った次第。

2010年3月20日訪問。