近衛家(摂家)

五摂家の一つ。近衛家は藤原忠通の長男の藤原基実を家祖とする。基実の子である基通が京都の近衛大路の北、室町の東に邸宅を構えた事が家名の由来。藤原忠実は父の師通が急死したことの影響を受け関白に就任することが出来なかった。師通が逝去した時点では祖父の師実は存命中であったものの影響力は低下していた。1102(康和4)年に白河法皇が寺の大衆への取り締まりのために、忠実の叔父に当たる興福寺別当覚信を解任しようとした際に対立し勘気を蒙る。鳥羽天皇即位に当たって閑院家の藤原公実が外戚である立場を理由に摂政の地位を望むに至って忠通の立場はより苦しくなる。この一件は醍醐源氏であり院別当である源俊明が忠実が嫡流であり公実は公季以来傍流であると主張したことで回避された。

しかし、往時の摂関家の勢いは無く白河法皇の院政に従属する立場に甘んじることになる。白河法皇によって公実の娘である璋子との縁談を勧められるが素行の悪さの風聞ありとして断っている。璋子は後に鳥羽天皇に入内している。この一連の流れで忠実と白河法皇との関係は悪化。忠実が白河法皇の勧めで一度は娘の勲子の鳥羽天皇への入内を断りながら、鳥羽天皇の要請によって再び入内の工作をし始めた事に、白河法皇が激怒。忠実の内覧の地位を剥奪した。これによって、忠実は宇治での謹慎に追い込まれるものの、長男の忠通は関白に任じられている。この背景には、忠実の失脚によって権勢を手中にした葉室家の家祖である藤原顕隆(1072-1129)が白河近臣として対立していた善勝寺流の家祖である藤原顕季が藤原家忠と昵懇であったために、家忠の関白就任を阻止するために敢えて忠通の関白就任を勧めたという事がある。

ちなみに、一連の騒動の引き金であった璋子は後の待賢門院であり、白河法皇とその寵姫・祇園女御に養われ、白河法皇と通じ崇徳天皇を産んだと噂された人物である。鳥羽天皇は白河法皇が崩御すると朝廷を掌握し院政に着手。宇治に蟄居同然であった忠実を復権させ白河院政の否定に取りかかる。そして、忠実の娘である高陽院を皇后とし、美福門院を寵愛。美福門院との子である体仁親王を崇徳天皇の皇太弟として即位させ近衛天皇として即位させる。

忠実は美福門院と鳥羽上皇の第一の寵臣である中御門藤原家成と結び摂関家の権勢の復活を目指すようになる。忠実は内覧の地位を再び手にしたが、この事で忠実の嫡男で関白の地位にあった忠通との関係が代わりに悪化していった。忠通に子が無かった事から忠実は子の頼長を忠通の養子とさせていた。ところがである。忠通に基実が生まれると頼長との養子縁組を破棄する。そして、頼長は近衛天皇に多子を入内させると、忠通も呈子を入内させて、兄弟の争いが表面化していく。忠実は1150(久安6)年に頼長に対して摂政の地位を頼長に譲渡するように求め、これが拒否されると実力を以て氏長者の地位を剥奪。忠通は義絶されるに至る。

1155(久寿2)年に近衛天皇が崩御。忠通によって後白河天皇が即位。頼長は鳥羽法皇の信任も失い失脚する。この時点でも氏長者の地位は頼長にあり、代々摂関家に仕えてきた源為義は忠実・頼長父子に近侍している。一方で、源為義の子であり廃嫡されていた義朝は鳥羽法皇に独自に仕えた。

鳥羽法皇が1156(保元元)年に崩御。摂関家内部の対立の双方に加担する事無くバランスを取っていた鳥羽院が崩御したことで忠実・頼長の立場は一気に悪化。後白河天皇は忠実と頼長が諸国から軍兵を招集することを禁止。高階俊成と源義朝に命じて東三条殿を没官。

これに対して、忠実・頼長は崇徳上皇とともに白河北殿に籠城する。いわゆる保元の乱の勃発である。結果は、忠実・頼長方の敗北。頼長は重傷を負って亡くなる。

保元の乱の罪によって摂関家領は没収となるところ、辛うじて没収を免れて忠通領として存続することを許された。とはいえ、摂関家の勢いは大いに殺がれることとなった。忠通は自身の命脈を保つための戦いには勝利したが家運を傾けてしまったと言えるだろう。加えて、1158(保元3)年に天皇近臣の藤原信頼と対立し後白河天皇から閉門に処され失脚。忠通は信頼の妹を嫡男の基実の妻に迎えることで摂関家の家運を何とか保つ。そして、関白の地位は子の基実に受け継がれた。

基実は二条天皇(在1158-1165)の関白、六条天皇の摂政となるも1166(永万2)年に24歳で死去した。この間、1160(平治元)年には基実の室の父である藤原信頼が信西と対立し二条天皇派、源義朝と結んで平治の乱を起こし敗北。藤原信頼は六条河原で斬首されている。更に、1164(長寛2)年には平治の乱で勝利した平清盛が基実に娘の盛子を嫁がせている。基実の子の基通は父の死の時点でわずかに6歳。そのため、六条天皇の摂政の地位は基実の弟である松殿基房が中継ぎとして就任。基実には平治の乱の謀反人・藤原信頼の甥であるという負の遺産を受け継いでいた。しかし、近衛家家司である藤原邦綱の尽力によって平盛子に所領の多くが伝領され基通は平盛子の父である平清盛の擁護を受けて摂関家の家門を守ることになる。平家の血を引く安徳天皇の摂政となり松殿から摂政の地位を取り戻している、

逆に平清盛が亡くなり平家一門が源頼朝によって討伐されると、源氏一門に近しい九条兼家が摂政となり逼塞を余儀なくされている。基通の子の家実は1206(建永元)年に九条良経の死去に伴って藤原氏長者と摂政、そして関白に就任。以降、九条道家との間で政争を繰り広げる。この経緯から鎌倉時代以降では近衛家と九条家が交互に摂関を務めることが慣例化する。家実の邸宅は六条猪隈小路にあり猪隈殿と呼称されたことから猪熊関白と称された。家実の四男兼平は鷹司家を立てている。

家実の子の家通が急死したことで藤原氏長者となった同じく家実の子の兼経は1237(嘉禎3)年に九条道家の娘の仁子を結婚。近衛家と九条家の融和を図り、九条道家から四条天皇の摂政の地位を譲渡されている。義父である九条道家とともに関東申次を務めるが九条道家が鎌倉幕府への介入を強めて失脚すると連座した。しかし、1247(宝治元)年に後深草天皇の摂政として復権。1252(建長4)年には弟の鷹司兼平に摂政を譲り宇治岡屋荘に隠居し岡屋関白と呼ばれた。

近衛兼経の跡は基平、家基と続いた。家基の子には母が鷹司家出身である家平と亀山天皇皇女を母とする経平があった。嫡男は家平であったが血統の高貴さを理由として経平も近衛家の嫡流を争った。嫡流は家平が承継し、その子の経忠の代で鎌倉幕府の滅亡を迎えている。しかし、近衛経忠は家平・経平に起源を発する従弟の基嗣との家督争いに悩まされることになる。後醍醐天皇が吉野に奔ると従ったが、後に京都に戻り、藤原氏長者の立場で関東の小山・小田氏を組織し藤氏一揆を計画するも頓挫。足利尊氏が弟の直義と干戈を交えるにために南朝に下り南北朝が統一された(正平一統)後も京都に留まるが正平一統の破綻によって京都を追放されている。

近衛経忠の子の経家は父が南朝に奔った後も北朝に留まったが北朝において重んじられなかったために同じく南朝に奔ったと考えられている。

家督は基嗣に承継され、その子の道嗣、 兼嗣、忠嗣、房嗣と続き政家の代で応仁・文明の乱を迎えている。政家の子の尚通(1472-1544)は娘の慶寿院を室町幕府第12代将軍足利義晴の正室としている。慶寿院は第13代将軍義輝・第15代将軍義昭兄弟の母である。この縁で慶寿院の兄の近衛稙家(1502-1566)は武家伝奏に代わる地位を築いた。

近衛稙家の子が戦国時代に暗躍する前久(1536-1612)である。

江戸時代の1599(慶長4)年には後陽成天皇の第四皇子で近衛前久の娘・前子を母とする近衛信尋が近衛信尹の養子となり皇別摂家の鼻祖となっている。