土屋 常陸土浦藩主家
土屋氏は坂東八平氏の一つとして数えられる中村荘司村岡宗平の子、土屋宗遠が土屋郷司となって土屋を名乗った事をもって起源としている。室町時代初期の土屋景遠の時に相模国を離れ、土屋勝遠の代で甲斐国守護の武田信昌(1447-1505)の婿となり、その子の信遠は武田の家臣団に加わった。武田信昌は1492(明応元)年に長男の信縄に家督を譲り隠居する。
しかし、次男の油川信恵に肩入れをしたために国を二分する争いを惹起することとなる。
1505(永正2)年に信昌、2年後の1507(永正4)には信縄が相次いでこの世を去る。信縄の跡を承継した信虎は小山田氏を味方に付けた信恵勢は対抗するが、1508(永正5)年の坊峰合戦で信恵自身が討死。信恵方の過半も戦死するに至って信虎による武田氏統一がなされた。さらに、郡内の小山田領へも侵攻し小山田信有(1488-1541)に妹を嫁がせて和睦している。
こうして甲斐再統一を果たした武田信虎に仕えたのが土屋勝遠の孫の昌遠(-1575)。昌遠は、信虎が息子の晴信によって駿河国へと追放されると、信虎に供奉し駿河国大平郷に移り住んだ。土屋昌遠の子の円都も父親と同じく追放された武田信虎に仕えたが眼病によって失明。駿河の地を離れ遠江井伊谷に移り叔父の菅沼忠久の庇護を受ける。後に今川氏真に呼び出され、更に、今川家滅亡後は北条氏政に仕え検校となる。小田原攻めの際に小田原城にあったが徳川家康の命によって井伊直政によって救われ徳川家に旗本として仕えた。その子の知貞は700石を得ている
一方、駿河今川家において水軍を率いていた岡部貞綱(-1575)は今川家滅亡後に武田信玄によって取りたてられ、1570(永禄13)年に土屋姓に改名。武田信玄の守役の金丸虎義の次男である昌続(1544-1575)が貞綱の養子となって土屋氏の名跡を承継。貞綱・昌続父子が1575(天正3)年の長篠の戦で討死したため、昌続の実弟の昌恒(1556-82)が土屋家の家督を承継。土屋昌恒は武田勝頼が滝川一益によって天目山で自害するまで供奉し討死。その最期は片手千人斬りと形容され斜面にて滝川一益軍を散々に斬り伏せたという。
土屋昌恒の子である忠直(1582-1612)は駿河清見寺に母とともに逃れ逼塞していたが、徳川秀忠の小姓として徳川家康によって召し出された。この時、「忠」の一字をう承け惣蔵という名を忠直としている。1591(天正19)年に相模にて3000石。1602(慶長7)年に2万石を得て上総久留里藩主となった。忠直には利直、数直、之直の子があった。
利直は上総久留里藩主を承継。利直の弟の数直は徳川秀忠の命によって家光の近習として仕えた。数直は家光の下で若年寄に任命され1662(寛文2)年に1万石で常陸土浦藩主となった。数直が老中に昇進すると4万5千石に加増。
数直の跡は政直(1641-1722)が承継。一旦、土浦藩から駿河田中藩に転出。再び土浦藩に戻り最終的には9万5000石にまで加増されている。この間、4人の将軍に仕えている。第7代将軍・徳川家継の後継争いでは新井白石、間部詮房ら側用人派が強く推す尾張6代藩主徳川継友を退け、紀州藩主徳川吉宗を将軍職に推戴してもいる。数直は1719(享保4)年に老中を辞任。子の土屋昭直、土屋定直が早世していたため、家督は四男の陳直(1696-1734)に譲られた。陳直の跡は篤直(1732-1776)が継いだ。この時、篤直が幼少であったために、本家であり上総久留里藩主であった旗本土屋亮直(1698-1763)が輔佐した。篤直の跡は寿直(1761-1777)が承継。しかし、病弱な体質を父親から受け継いだのか17歳で死去。跡は異母弟で養子としていた泰直(1768-1790)が承継。この泰直も23歳で死去。同母弟の英直(1679-1803)が継いだ。彼も35歳で亡くなる。嫡男の寛直(1795-1810)が第8代藩主となるが、同じく病弱であり16歳で病死。家臣団によって嗣子なく領地奉還を願う届け出がなされた。これに対して幕閣は土屋家が鎌倉以来の名門である事に鑑み、第6代藩主土屋英直の娘の充子を水戸藩主徳川治保の三男の拾三郎に嫁がせ拾三郎を土屋彦直(1798-1847)を第9代藩主とした。
彦直が眼病によって隠居すると嫡男の寅直(1820-1895)が第10代藩主となった。寅直は佐幕派と倒幕派の間で揺れ動き1868(慶応4)年には新政府の命令に従って謹慎。新政府の下で江戸城警備を担当した。寅直は水戸第9代藩主徳川斉昭の従兄弟であった関係から、徳川斉昭の子で最後の将軍、徳川慶喜の弟である松平昭邦(1852-1892)が養子となり土浦藩最後の藩主となった。