新庄 常陸麻生藩主家

近江国坂田郡新庄を発祥の地とする藤原北家秀郷流。俵藤太こと藤原秀郷は近江国栗太郡田原郷出身とも言われる。このため、近江国北部には新庄氏の他にも蒲生氏、今井氏、堀氏、泉氏、井戸村氏、小堀氏などの諸氏が藤原秀郷の末裔を称している。この内、今井氏は藤原秀郷の後裔である季俊の子孫である俊綱が今井を名乗ったことを始まりとしている。この今井俊綱の曾孫の遠俊は足利尊氏に従い、子の俊名が第2代将軍足利義詮に仕えて近江国坂田郡新庄を本拠として新庄を称した。

第12代将軍足利義晴に仕えた新庄直寛は近江伊吹山で1538(天文7)年に討死。その跡を新庄直昌が承継。幕府御料所である朝妻に城を築いた。細川晴元と被官の三好長慶が相争うと直昌は細川晴元亀方として摂津に出陣するも江口の戦いで討死。嫡男の直頼は朝妻城に、弟の直忠は新庄城にあって、近江で有力大名化していく浅井家の家臣として生き延びていく。後に、織田信長が浅井長政と対立し近江へ羽柴秀吉を派遣すると調略に従い新庄直頼は秀吉の旗下に加わった。

織田信長の死後、秀吉が柴田勝家と争った賤ケ岳の合戦における功績によって大津1万2千石を得、その後の戦功によって摂津高槻3万石を得るに至った。豊臣秀吉の死後、加藤清正、浅野幸長らと石田三成に対抗。ところが、石田三成の挙兵時には三成に与さざるを得なくなり伊賀上野にて筒井定次を攻め落城させ上野城に籠城。徳川家康が関ヶ原で勝利したため改易となった。もっとも、徳川家康は新庄直頼が石田三成に従った事情を知悉しており、同郷の蒲生秀行預かりとし会津に送られた。

その後、駿府の徳川家康に赦され、常陸国行方、河内、新治、真壁、那珂、下野国芳賀、都賀、河内8郡内で3万300石を賜わった。これが常陸国麻生藩の始まりである。