放生津城址
富山は射水にある古城址。今は、放生津小学校が立っている。赴いた時は夏休みということもあって校舎には人が居なかった。グラウンドを見渡しても城址を示す案内板の類はない。ただ、グラウンドを取り囲むように高い土塁が見えるのみ。この土塁が何とはなしに嘗ての遺構のようにも思える。しかし、その場合、傍に案内板などがあっても良さそうなもの。土塁を見ても今一つ確信を持つことが出来ない。
グラウンドの周りを行き来して、ようやく、城址の碑に辿りつく。
通りかかった人に聞けば、土塁は城址の一部ではなく、小学校の建設時に土砂の流失を防ぐ目的で盛られたものだという。
さて、この放生津城は鎌倉時代以来のもの。1333(元弘3)年には、越中守護であった鎌倉北条家一門の名越時有が出羽・羽後の朝廷軍を相手に戦い、敗れて、一族郎党79人が切腹して果てた。滋賀にある番場の蓮華寺における六波羅探題北条仲時の軍勢の悲劇、鎌倉の東勝寺における北条一門の最後を彷彿とさせる。
室町時代になると、越中守護代の神保国宗が1443(嘉吉3)年には放生津に館を構えていたことが知られている。ここは神保氏の拠点であり、1493(明応2)年に室町幕府第10代将軍足利義材が政変によって亡命した際に受け入れられた地でもある。足利義材は放生津城主神保長誠によって支えられて放生津幕府とも言われる政権機構を整え、強との細川政元と対峙した。
1520(永正17)年に神保長誠の子である慶宗が、越中に侵攻してきた越後守護代長尾為景によって自刃に追い込まれると、神保一族は放生津城から富山城へと本拠地を移した。
江戸時代には城址は加賀藩の蔵屋敷として活用された。
城址は今は小学校のグラウンドの地中に埋もれて居て直接目にすることは出来ない。
2011年8月21日。
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