上総武田氏
1416(応永23)年
上杉禅秀の乱勃発.甲斐守護武田信満が上杉禅秀に与したために室町幕府軍から追討を受け十賊山において討死.以降,逸見,穴山,跡部氏が甲斐で台頭.逸見有直が鎌倉公方足利持氏を通じて守護職補任を要請すると,室町幕府将軍足利義教が武田信満の弟の穴山満春に武田家の家督を承継させ武田信元とする.以降,逸見有直が実効支配する中,武田信元は甲斐入国が出来ない状況に.1417(応永24)
幕命により甲斐守護武田信元(信満の弟)を支援するため,信濃守護小笠原政康が甲斐守護代跡部明海・景家親子を甲斐に派遣.武田信満の子・武田信長の助力もあって武田信元が甲斐入国.武田信長は逸見氏勢力との抗争を繰り広げる勝利.しかし,鎌倉公方には屈し鎌倉府に出仕.武田信長の鎌倉出仕甲斐不在の間,守護代跡部氏が勢力を拡大.武田氏と跡部氏との争いに繋がっていく.
1420(応永27)年
甲斐守護武田信元が逸見有直との闘いで討死.甲斐が再び守護不在となる.武田信長の子の武田伊豆千代丸は信元の養子となっていたが跡部氏は受け入れず.
1423(応永30)年
武田信長の兄・信重が甲斐守護に任命.しかし,逸見氏,穴山氏ら国人衆の妨害により入国出来ず.1433(永享5)年
鎌倉府にいた武田信長が甲斐入国を果たし日一揆と連合して守護代跡部氏と争うも敗れて駿河へ落ち延びる.1435(永享7)年
鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実が対立し永享の乱が勃発.足利持氏は室町幕府軍に敗れ自刃.1438(永享10)年
甲斐守護武田信重が守護代跡部氏の支援によって甲斐入国.1440(永享12)年
鎌倉公方足利持氏の遺児春王丸・安王丸を結城氏朝が擁立し室町幕府に叛旗を翻す(「結城合戦」).室町幕府は上杉清方,今川範忠,小笠原政康を派遣し鎮圧.春王丸・安王丸は捕縛され,将軍足利義教の命を受けた長尾実景によって美濃にて斬殺.武田信長も幕府軍として参加し武功により相模西部に所領を得る.
1441(嘉吉元)年
結城合戦の祝勝会の場で将軍義教が赤松満祐により暗殺(「嘉吉の乱」).嘉吉の乱後,武田信長の相模西部の所領は扇谷上杉氏によって剥奪.
1449(文安6)年
足利成氏が幕府管領の畠山持国らの支持により鎌倉公方として鎌倉入り.1450(宝徳2)年
山内上杉家家宰・長尾景仲と扇谷上杉家宰・太田資清が鎌倉公方足利成氏を襲撃(「江ノ島合戦」).足利成氏は江ノ島に逃れ,小山持政・千葉胤将・小田持家・宇都宮等綱の援軍により長尾景仲・太田資清を撃退.足利成氏の要請に応えた幕府管領の畠山持国の命により,関東管領上杉憲実・憲忠が鎌倉に帰参.
1452(享徳元)年
室町幕府管領が畠山持国から細川勝元に交代.細川勝元は関東管領を重視.1454(享徳3)年
鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を御所西御門にて暗殺(「享徳の乱」).1455(享徳4)年
鎌倉公方足利成氏が長尾景仲・太田資清を追撃.分倍河原の戦いにて,犬懸上杉憲秋・扇谷上杉顕房を自刃に追い込む.足利成氏は古河鴻巣に公方館を設け鎌倉から移座.以降,鎌倉公方は古河公方と呼ばれる.
扇谷上杉氏に所領を奪われていた武田信長が古河公方に与する.
1456(康正2)年
武田信長が古河公方足利成氏の命により,上杉方として上総守護を務めていた千葉胤直を攻める.武田信長は上総から千葉胤直の勢力を駆逐.1458(長禄2)年
武田信長が上総に庁南城、真里谷城を築城(上総武田氏の始まり).武田信長の子のうち,武田伊豆千代丸こと武田信高は庁南城に入り家督を承継.
1477(文明9)年
武田信高が五十子の戦いにおいて古河公方足利成氏に従軍.信高の跡は信興が真理谷家として,道信が庁南家として承継.庁南城には道信が祖父信長存命中から同居していたために,両家は両武田家と呼ばれるようになる.
1479(文明11)年
扇谷上杉家の太田道灌が千葉自胤を擁立して房総に侵攻.古河公方方の千葉孝胤は臼井城に籠城するも落城.太田道灌は上総にも侵攻し両武田家を下す.しかし,房総諸家は千葉孝胤を支持していたため,千葉自胤の支配は浸透せず.
1486(文明18)年
太田道灌が主君である扇谷上杉定正によって糟屋館において暗殺.これにより,後ろ盾を失った千葉自胤は房総の旧領を維持出来なくなり武蔵国へ撤退.
1516(永正13)年
真里谷恕鑑が相模の伊勢盛時の援軍を受けて原胤隆の支配地域に侵攻.1517(永正14)年
庁南家の武田宗信,恕鑑の父で真理谷家の武田信勝が,千葉氏一族の原氏と対立.同じく古河公方方である原氏に対抗するために,第2代古河公方・足利政氏の子である空然を擁立し原氏の本拠地である小弓城を攻略.原胤隆を駆逐.空然は,以降,小弓城を拠点として古河公方に対抗し,小弓公方と呼ばれる.
1524(大永4)年
真里谷恕鑑が,扇谷上杉家の要請により,北条氏綱と争い,品川湊を支配下に置く.更に,鎌倉も支配下に.また,安房の里見義豊とも同盟し,後北条氏と対峙.1533(天文2)年
北条氏綱が上総侵攻のために,里見実堯と安房水軍を率いる正木通綱に接近.これに対して,稲村城にあった里見家当主である里見義豊が小弓公方足利義明の了解の下で,上総金谷城の叔父実堯と正木通綱を暗殺(「稲村の変/天文の内訌」).実堯の子の義堯は金谷城を落ち延びて,正木時茂・時忠兄弟とともに百首城に籠城.北条為昌が上総に援軍として上陸し,里見義豊を駆逐.
里見義豊は上総の真里谷信清(恕鑑)の下へ落ち延びる.
真里谷信清(恕鑑)は小弓公方方の里見義豊の救援に失敗し,小弓公方足利義明の勘気を蒙る.
1534(天文3)年
真里谷信清(恕鑑)が死去.後継は真理谷信隆となるも,小弓公方足利義明に支持された弟の信応と後継者争いに突入(「上総錯乱」).真理谷信隆は弟に対抗するために北条氏と連携し峰上城に籠城.
しかし,北条方であった安房の里見義堯が小弓公方軍に転じ,峰上城に続いて籠城した百首城を攻略され武蔵国金沢に落ち延びた.
真理谷武田家当主に信応がなり,佐貫城主の真理谷全方・義信父子が実権を掌握.
1534(天文7)年
「第一次国府台合戦」.小弓公方足利義明が北条氏綱と干戈を交える.小弓公方足利義明が討死.勢いに乗じて,武蔵金沢にあった真理谷信隆が上総に復帰し椎津城を拠点として信応と対峙.
歴史散歩>上総国