黒石藩主津軽家

初代の津軽信英(1620-1662)は弘前藩第2代藩主津軽信枚と松平康元の娘である満天姫との間に生まれた。松平康元は尾張国知多郡の坂部城主で徳川家康の生母・伝通院の再婚相手である久松俊勝の子。つまり、徳川家康と松平康元は異父弟。松平康元は上ノ郷城主を皮切りに下総関宿藩主となった。松平姓を下賜され久松松平家の祖となった。

津軽信英はその久松松平家の血を受け継いでいる。

関ヶ原の戦いの時には、弘前藩の嫡子である津軽信建は西軍に与した。一方で、津軽信英は東軍として徳川家康の本陣を守備している。これがために、津軽家は西軍への加担を不問とされた。

1607(慶長12)年に、津軽為信・信建父子が死去。信牧が津軽宗家の家督を承継。これに対して、信建側近にして妹婿の津軽建広が信建の遺児の熊千代を擁して信牧に対抗。江戸幕府老中本多正信に熊千代相続を訴えた。これに対して同じく老中の安藤直次が反対し信牧の藩主相続が決定。津軽建広は大光寺城に籠城するが落城。ここに津軽騒動は終焉。

津軽宗家は津軽信枚と石田三成の三女の辰姫との間に生まれた信義が承継。信義の後は嫡男の信政が津軽藩第4代藩主となる。この津軽信政が幼少であったために、弘前藩の存続には条件が付けられ津軽信英が後見人とされた。津軽信英には5千石が与えられ、交代寄合格の大身旗本となった。黒石津軽家が大名となるのは第8代親足が遠戚であった第7代津軽典暁の養子として相続した時から。黒石藩の立藩には黒石津軽家出身の宗家藩主寧親によるところ大であったとされる。


黒石の町並み。2010年5月2日訪問。


陸奥国黒石城