筒井古城址
過日の三重県への美と歴史の旅から。
1585年に、豊臣秀吉の命によって大和郡山から伊賀上野へと転封になった筒井定次によって築城された。筒井定次(1562-1615)は筒井順慶の養子。
築城以前から、この地は要衝の地であり、平氏の祈願寺の平楽寺、薬師寺が建立されていた他、織田信雄の家臣・滝川雄利は砦も築いていたとされる。
1596(慶長元)年に筒井家中で中坊秀祐と島左近の間で灌漑用水を巡る争いが起こる。筒井定次が、この時に下した裁定を不服として島左近清興は石田三成のもとへと走っている。
こうして、中坊秀祐の権力が強まる中、松倉重政、森好之、布施慶春も相次いで筒井家を去った。
こうした家中における不安を抱えつつも、1600年には徳川家康に従って会津の上杉景勝を討つために伊賀上野を後にした。
その隙に、西軍に与した高槻城主・新庄直親(1538-1613)によって城を奪われている。関ヶ原の戦いで筒井定次の属した徳川家康が勝利を収めたことによって筒井古城は再び筒井家の手に戻った。
しかし、豊臣家との対立を深める徳川家は大阪への要衝の地である伊賀上野を重視。この地を家中に騒動の種を抱え、かつ、豊臣家とも縁の深い筒井家が守ることを良しとせず、1608(慶長13)年に筒井定次を改易し江戸の鳥居忠政の下に預けられた。
代わって、伊賀上野の地を守ったのは同じ外様でも徳川家への忠節厚い藤堂高虎であった。
そして、1615(慶長20)の大阪冬の陣において豊臣家に内通したことを理由として筒井定次・順定父子は自害を命ぜられ名門筒井氏の大名としての幕は閉じたのである。