飯尾氏
1184(元暦元)年に源頼朝の要請によって、大江広元とともに鎌倉入り。両人は鎌倉幕府の行政機構を整備し幕府を支えることになる。しかし、源氏三代が途絶え北条氏が執権体制を確固としたものとしていくにつれて三善氏は中枢から外れていく。とはいえ、近江国蒲生郡町野を苗字の地とした一族の町野氏を始めとして矢野氏、太田氏ら一族が評定衆を務めた他、康俊、康持は問註所執事も兼ねた。
室町時代になっても、一族は幕府の評定衆、奉行人を務め、大和守・近江守・肥前守・美濃守・加賀守といった流れを生んだ。飯尾を名乗ったのは矢野倫重の子の兵庫允三善倫忠。倫忠は阿波国麻殖郡飯尾村を所領としていたため飯尾を名乗ったと考えられる。駿河の飯尾氏も、その一つの流れであり、室町幕府将軍足利義政から、享徳の乱で鎌倉公方・足利成氏討伐を命じられたことで知られる今川義忠が、1467(応仁元)年に応仁の乱が勃発すると上洛。更に、翌1468(応仁2)年に細川勝元の命令によって、東海道の斯波義廉の分国の撹乱のために駿河へと帰国。その際に一緒に京都から駿河入りしたのが飯尾善左衛門尉長連であった。
なお、戦国時代の『阿波古城記』には麻植郡分飯尾殿(三善)と見え、その一族の一部は四国に土着したことが分かる。
1473(文明5)年、今川義忠は、美濃国の斎藤妙椿から攻撃を受けた東軍の三河国守護・細川成之を救援するために、将軍の命により出兵。この時、出兵のための兵糧を供出する所領を同じ東軍の尾張国守護・斯波義良、三河西条吉良氏(上吉良)4代目当主の吉良義真と対立。吉良義真の被官である遠江の国人巨海氏、狩野氏と干戈を交えた。1475(文明7)年には、西軍の斯波義廉の重臣・甲斐敏光を東軍に抱き込み遠江守護代に据える。ここに遠江国は東軍同志が争う地となる。
1476(文明8)年、遠江国人・横地四郎兵衛と勝間田修理亮が今川義忠に叛旗を翻し斯波氏に内通し見付城で交戦の構えを取る。これに対して、今川義忠は出兵し横地四郎兵衛と勝間田修理亮を討伐。ここまでは良かったが、駿河に引き返す途上で、遠江小笠郡塩買坂において横地・勝間田の残党によって襲撃され討死。飯尾長連は今川義忠とともに討死した。義忠の突然の死により、6歳の龍王丸(氏親)と義忠の従弟の小鹿範満が今川家の家督を巡って争うこととなる。この調停のために京都から下向したのが幕府申次衆の伊勢盛時、つまり、北条早雲として知られる人物である。
吉良義真の被官である遠江の国人巨海氏が築城した引馬城は、巨海氏が今川義忠によって滅ぼされ、更に今川義忠が遠江小笠郡塩買坂において不慮の死を遂げた後は斯波氏の被官大河内貞綱が城主を務めた。しかし、1516(永正13)年、今川氏親に攻略され落城。飯尾賢連が引馬城主として置かれた。その子乗連は、今川義忠の上洛軍に従軍し、桶狭間の合戦で討死。これを機会に今川家の支配から逃れた三河の松平元康(徳川家康)が隣国の遠江に侵攻。引間城主の飯尾連竜も、これに呼応。これに対して、今川氏真による攻撃に晒される。1563(永禄6)年と1564(永禄7)年の攻撃は防ぎ和睦となったものの、1565(永禄8)年に飯尾連竜は駿府にて暗殺される。これにより駿河飯尾氏は滅亡した。
静岡県の城館