矢古宇氏_武蔵七党_横山党
矢古宇郷には横山党以前に藤原秀郷流の矢古宇氏が本拠としていた。
その後、野宰相小野篁の七代の孫、孝泰が武蔵守として武蔵武蔵国に赴任。横山の地に土着する。これが狭山丘陵を挟んで桓武平氏流村山党と対峙した横山党の起こりである。
この横山党の中野師兼の子、師能が武蔵国北足立郡の矢古宇郷の地を領したことから始まる。
矢古宇は八国府とも書く。奥州街道の重要拠点であった。その地は江戸時代の草加宿に当たる。草加宿は矢古宇、その東の篠葉、南の宿篠葉、南草加、西の与左衛門新田、北の中曽根、それから谷塚など九ヵ村を宿組として纏めて作られた。しかし、鎌倉時代にはこれら一帯を矢古宇郷と呼んだという。矢古宇には32ヵ村が含まれていた。
矢古宇が奥州街道の要衝ということで奥州遠征の主役である清和源氏の伝説が残るところでもある。郷内に鎮座する矢古宇郷総鎮守の峯ヵ岡八幡神社は天慶(934-947)年間に源経基の創建という。そして、源義光も戦勝祈願をなし、その祈願に対して白鳩が出現し加護したという。このような伝説の残る地である故であろうか、一帯は承久3年に鶴岡八幡宮に寄進され社領となったことが東鑑に見える。そして、地頭として矢古宇を支配した人物として建長8(1256)年に矢古宇衛門次郎の名がある。これは景能のことであろうか。
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