横山氏_小野氏篁流_武蔵七党
 小野篁の子孫に当たる小野隆泰が武蔵守として武蔵国に下向。国府の近くである南多摩の地の横山郷に土着したことに始まる。武蔵守隆泰の子の武蔵権介義隆は小野牧の別当として横山党の繁栄の基礎を築く。この義隆を以って武蔵七党横山党の嫡流である横山氏の初代とする。
 横山経兼は前九年の役に際して源 頼義に従軍。安倍貞任の刎ねられた首を掛けたことで知られる。この故事を以って、後に源 頼朝の奥州征伐の際に子孫の横山時広が藤原泰衡の刎ねられた首を懸けたという(「吾妻鏡」)。
 坂東に60数氏と呼ばれるほど繁栄した横山氏であるが、7代目の横山時兼の時、建保元(1213)年の和田合戦で敗れたことで200年の歴史に幕を降ろした。横山時兼は和田義盛との事前の打ち合わせ通りに鎌倉の腰越の浦に到着したが既に合戦の最中。時兼が和田軍とともに戦った背景には横山氏から和田義盛、和田常盛のもとに嫁していたことによる。この和田合戦で和田側は敗北。時兼は坂東山償原別所で和田新左衛門常盛とともに自刃し61歳の生涯を終えた。横山党は和田合戦で31名が戦死した(「吾妻鏡」)。
 なお、横山資隆の弟家光の子孫は宇津木、井田、毛利田、武佐、目黒氏などに分かれた。
 建暦3年5月5日には横山党の本拠地である横山庄が横山党の嫡流横山氏から収公される。
現在、東京都八王子市元横山町にある八幡八雲神社の境内は横山時兼の居館跡とされる。境内に永禄3年建立の横山社がある。