二階堂家 須賀川二階堂家の出自は藤原南家流であり、行政が鎌倉に下向し鎌倉幕府初代将軍頼朝に仕え二階堂と名乗ったことから始まる。行政の嫡男行光が建保6(1218)年に政所執事に任命されて以来、執事を世襲した。
室町時代に至っても建武の親政時には雑訴決断所に、室町幕府が開かれると政所執事として活躍する。
須賀川二階堂家も、この二階堂宗家の流れに連なるとしても、いつの代で分かれたのかに関しては説が分かれる(図は『福島県史』による)。
一説には鎌倉時代末期には行朝が既に須賀川に下向し、南朝側に付いて戦い、式評定衆に任命されていたとされる。
その後、永享の乱(1439)で鎌倉府の足利持氏が敗れると二階堂家も一時断絶したという。
別説では、建武元(1334)年に雑訴決断所所衆に任じられたものの陰謀の罪を受けて処刑された二階堂貞藤の兄の系譜が須賀川二階堂家に連なる。
いづれ定説とはし難い。
須賀川二階堂家の系譜で確実なのは続義より後。続義の跡を継いだ輝行は田村家と連合し伊達晴宗、蘆名家、岩城家と対峙。輝行の子の盛義の代には蘆名家との間に従属的連合を結び、子の盛隆が蘆名家の人質となった。この盛隆は後に蘆名家の家督を継承することになる。こうして、二階堂家と蘆名家は融合するも、蘆名家臣団の争いにより盛隆は殺害されたことで鎌倉開府から続いた二階堂家は実質的に断絶した。
その後、天正17(1589)年に家臣団の亀裂を見た伊達政宗が侵攻し、摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼす。続いて、二階堂家の本拠地である須賀川城にも侵攻。伊達晴宗の娘で盛義の妻、大乗院が岩城家を頼って落ち延びたことで名実共に二階堂家は途絶えた。
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