物部家
八十物部と呼ばれるほどに物部一族は数多くの家に別れ繁栄したことで知られる。この物部一族は大和朝廷にあって軍事と刑罰権を掌握していた部族である。雄略18(474)年には物部目が伊勢国朝日郎を征討したという話が伝わる。また、皇統が断絶した折に継体帝を擁立したのも、物部一族の麁鹿火であるという。加えて、継体21年から22年にかけての筑紫国造磐井の叛乱をも鎮圧。軍事部族の名を一躍高めた。
この一族は饒速日尊を祖先として仰ぎ、大和朝廷の軍事倉庫をも兼ねる石上神宮を氏神とした。
『先代旧事本紀』によると、垂仁帝の時代に十千根命のときに初めて物部を賜姓されたとされる。
物部尾輿は同じく軍事を司った大伴一族を下し大連となって物部一族を大いに盛り立てた。しかし、その後、大臣であり蘇我稲目が束ねる蘇我一族と対立するようになる。
その対立は仏教を受容するかどうかを軸とするもの。
用明帝の後継を巡って穴穂部皇子の擁立に失敗したことなどから蘇我氏優位を覆すことが出来ない情勢となる。再び物部一族の栄華を取り戻そうとする物部守屋は蘇我一族との戦いを選ぶ(蘇我物部戦争)。
勝負は物部守屋の敗北となり、その後は物部一族はほぼ滅亡し、日本史の表舞台から消え去って行った。
わずかに、天武帝の時代に石上朝臣、榎木朝臣という名で再登場する程度である。