前九年の役
陸奥国および出羽国は他国とは異なり国域に変動が見られる。ただ単に大和朝廷の征服区域が拡大していったかというとそうではない。『日本後紀』に見える弘仁2(811)年の条には陸奥国に和我郡、稗貫郡、斯波郡の3郡を置くとある。ところが、延長5(927)年の法典集『延喜式』には3郡の名はない。
これは、当時、蝦夷と呼ばれた勢力が大和朝廷の支配地域を南に押し下げたからではないかと考えられている。
恐らくは、このような勢力の中に後に陸奥国で俘囚の長として名を馳せる安倍家の祖先も含まれていたのだろう。現在、伝えられる系図は伝説を記したものに類し、この辺りの真相を教えてはくれない。
陸奥国の雄、安倍家が歴史に登場してくるのは、後冷泉帝の代に安倍頼良が、岩手、稗貫、和賀、江刺、胆沢、紫波の奥六郡の南限である衣川を越え国府多賀城と衝突した時。
この南下に対して、永承6(1051)年、陸奥守藤原登任は秋田城介平重成とともに安倍頼良を攻める。
安倍頼良は鬼切部(現宮城県玉造郡鳴子町鬼首)に大和朝廷軍を迎え撃ち勝利する。
これが東北を揺るがした前九年の役の始まりとなる。
安倍軍の攻勢に驚いた大和朝廷は、武勇の誉れ高い源頼義を陸奥守に任命。更に、天喜元(1053)年には9世紀以降の「鎮官別任」の慣例を破って鎮守府将軍にも任じる。源頼義は安倍一族平定のために陸奥に赴くが、国府着任後に大赦の発表となる。この大赦によって安倍頼良は罪を許され、これを機会として頼時と改名。
しかし、武勇で知られる源頼義にとって、何らの成果なくして陸奥を離れることは耐え難い。
このような危うい平和の均衡は、天喜4(1056)年に破られる。
陸奥守の任期を終えた源頼義が鎮守府将軍として胆沢城に赴いた帰途に、一行は頼時の子貞任によって襲撃されたことで戦いの再開となる。
武勇で知られた源頼義も、奥六郡の北に位置する最北の地を治める安倍富忠とともに安倍頼時を挟み撃ちにし死に追いやってからは苦戦を強いられる。
ようやく、康平5(1062)年に源頼義は出羽の清原武則の援軍によって安倍軍を打ち破る。
この戦いの後に、陸奥国・出羽国の支配は安倍一族から清原一族の手に移っていく。
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