館山城
2007年10月7日
西葛西の自宅から千葉県の里見の湯に浸かりに行く。帰りに館山城に立ち寄り。館山城は安房の戦国大名里見義頼が築城を命じ子の義康の代の1590(天正18)年に完成し本拠としたとされている。義頼の兄の義弘は1556(弘治2)年に海を渡って三浦半島から鎌倉に攻め入って尼寺太平寺の青岳尼を連れ去り正室とした逸話がある。青岳尼は北条氏と戦った国府台合戦で敗死した小弓公方の遺児であり幼馴染であったという。
義頼は義弘の弟であったが嗣子となっていた。ところが、義弘の晩年に梅王丸が産まれる。そこで、義弘は実子の梅王丸に上総を義頼に安房を相続させ世を去った。このことが混乱を招き内乱を惹起。義頼は天正7年に久留里、千本、百首、佐貫城を一気に落城させ梅王丸を出家に追い込み、里見家を統一した。この8年後に義頼は安房岡本城で病死。後を継いだのが嫡男の義康。
義康が里見家の当主となってすぐに、豊臣秀吉による小田原征伐が行われる。義康は秀吉の求めに応じて小田原に参陣するのではなく、海を渡って三浦半島の北条軍に襲い掛かり、里見家の悲願であった鎌倉攻略を開始する。この拘りを秀吉が気持ちよく感じなかったのは言うまでもない。里見氏は徳川家康の関東移封によって上総の支配権を奪われ安房一国のみの安堵に留まった。
里見家は関が原の戦いでは徳川方に与して命脈を保った。しかし、義康が31歳の若さで病死し、跡を継いだ忠義の代で正室を大久保忠常の娘を迎えていたことから大久保忠隣事件に連座し実質上の改易となった。滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」は、この改易以降の里見家の苦悩を描いたもの。